万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景

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古代歌謡
会津八一の歌
 



作家の顔

飛鳥時代後期から白鳳・天平時代にかけて、和歌は、中華文明の漢詩に対抗する日本の文芸として確立されたといってよいと思います。額田王、柿本人麻呂、大伴家持は、その後1300年続く和歌の伝統の礎を作った万葉の巨人と言えるでしょう。"作歌の顔"では、作家たちの人物像とドラマにスポットを当てていきたいと思います。

歌人 物語
額田王 若い頃に大海皇子(後の天武天皇)と恋愛関係があり、そののち天智天皇の思われ人になって後宮に入った。天智、天武、額田王の三角関係の物語はドラマチックで素晴らしい歌を生んだ。宮廷歌人の魁でもあり、国際色豊かであった近江王朝を代表する歌人でもある。晩年は不明だが、多武峯(奈良県桜井市)の栗原寺で暮らしたという説がある。なお、姉の女王も天智天皇の後宮に入り、後に藤原鎌足の后になった。
また、額田王と大海との間に十市皇女がおり、十市は天智の息子の大友皇子の后になったものの壬申の乱で夫を失い、その後高市皇子との間に恋愛があったものの、政略的に引き離されたため自決したという。
大津皇子 大津皇子は文武に長けてその名声が高かった故に、天武天皇の皇太子であった草壁皇子の母親の讃良皇女(後の持統天皇)に疎まれて、天武天皇逝去後僅か24日目に謀反の罪で捉えられ自害に追い込まれた。政変直前に姉の大伯皇女を伊勢斎宮に尋ねて交わした歌、そして大津の死後に大伯が弟を思って詠んだ歌が悲しい。
柿本人麻呂 歌聖と称えられる白鳳期を代表する宮廷歌人。宮廷の儀礼用に壮大な長歌形式による寿歌や挽歌を作っただけでなく、私小説風の相聞歌、挽歌、旅の歌にも優れていた。万葉集に人麻呂は、地方官吏として石見国に赴任して、その地で没したとする記述があるが、人麻呂は石見で刑死したという異説が発表されて話題になった。
山部赤人 柿本人麻呂の後を次ぐ天平初期の宮廷歌人。今までになかった叙景的な作風の短歌をたくさん詠んだ。地方官吏として東国に下って詠んだ"田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける"は万葉集随一の絶唱とされている。奈良県榛原の額井岳山麓の景勝地に墓がある。
山上憶良 全くの無位無官から遣唐使として中国に渡って頭角を現し、後半生においては伯耆国や筑後の国守を務めた。晩年大量の作歌を行い、また宮廷歌人としての活動は行わず、もっぱら個人的な独吟のみを行った。庶民の貧しさを歌った「貧窮問答歌」や子供への愛情を切々と詠った「子等を思う歌」などは、近代詩にも通ずる傑作とされる。
大伴旅人 古代の名族"大伴氏"の長として、中納言、太宰権帥、大納言を務めた宮廷政治家。妹に"坂上郎女"、息子に"大伴家持"を持つ。特に大宰府で山上憶良と共にあって多くの歌を詠み、「酒を讃むる歌」を作ったことは有名。大宰府から帰任した翌年、奈良市佐紀にあったとされる邸宅でなくなった。
中臣宅守と
茅上娘子
万葉集に数多い恋の歌の中で、中臣宅守と茅上娘子の悲恋の物語は特に有名。官人の中臣宅守が何らかの罪に問われて越前国に流されるという事件がおき、後宮に下級女官として務める妻の茅上娘子との間に63首の激しい相聞歌が交わされた。茅上娘子の"君が行く 道の長路を 繰り畳ぬ 焼き亡ぼさむ 天の火もがも"は絶唱とされる。
防人 九州地方の防備のために、東国から徭役として男子が徴用される防人の制度があった。防人歌が万葉集に編纂されたのは、万葉集の編者である大伴家持が兵部卿にあって、九州に向う防人の歌謡を集めたからといわれている。東国農民の生活が溢れた秀歌が多い。
大伴家持 古代名族の大伴氏の長。藤原氏全盛の中で40歳前後まで不遇であったが、光仁・桓武天皇時代に参議に起用され、その後陸奥按察使、鎮守将軍、中納言、持節征東将軍を歴任した。家持が死んだ直後、長岡新京で藤原種継が暗殺される事件がおき、家持も首謀者の一人として罰せられた。叙景的な彼の作風は、平安和歌の魁となるもの。万葉集は、もともと家持の私家版として作成されたもので、家持の歌は万葉集の1割を占める。

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁更新: 2008/7/26 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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