万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


01-0028 春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山 持統天皇 天香久山




写真: 藤原宮跡から天香具山を望む
May 1 2010
Manual focus, Lens150mm, Format67
RVP100F

題詞に"天皇御御製"とある。持統天皇の作。"春が過ぎて夏が来たようだ。天香具山に真っ白な衣が干されているから。"

この歌は、万葉集の中でも最も有名な歌のひとつです。誰もが学校で習っていて、そらんじることができる人も多いと思います。ところが、これほど茫洋としてつかみどころのない歌もありません。ただ単に歌意を解釈すると"天香具山に真っ白な衣が干されている初夏の景色"を詠みこんだ叙景歌と読み取れますが、よく考えてみると、それだけで天皇の御製歌と断って万葉集の第一巻の28番目に載せるほどの歌なのでしょうか。もっと裏の意味が何か隠されているのではないのか。2年程前に漠然とそんなことを考え始めて、結局何度も天香具山辺りを駆け巡ることになりました。
舒明天皇が行った国見を偲ぶために登った天香具山の頂。高市皇子が亡くなるときに娘の檜隈女王が祈ったという泣沢神社。持統天皇が国見をし、柿本人麿が歌を詠んだ埴安池跡。大津皇子が謀反の罪で自死を賜ったとされる磐余池(いわれいけ)跡。一面の田園風景の広がる北麓。彼岸花の美しい南麓。

02-0201 埴安の 池の堤の 隠り沼の ゆくへを知らに 舎人は惑ふ 柿本人麻呂 埴安池跡
02-0202 哭沢(なきさわ)の 神社(もり)に三輪(みわ)据ゑ 祈れども 我が大君は 高日知らしぬ 檜隈女王 泣沢神社
03-0334 忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古りにし里を 忘れむがため 大伴旅人 天香具山
03-0416 百(もも)伝ふ 磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 大津皇子 磐余
03-0426 草枕 旅の宿りに 誰が嬬か 国忘れたる 家待たまくに 柿本人麻呂 天香具山

NHKの"日めくり万葉集"で、アレックス・カーさんは、初めて天香具山を見たときに、持統天皇の歌と違ってあまりに小さな山なのでびっくりしたと語っておられました。確かに日本国の発祥の地に聳え立つ神奈備山としてはあまりに小さいのだけれども、しかし実際にいろいろな場所を巡ってみると、この山は大変人の匂いが強くて、生活の近くにあったことがわかります。
このような遠回りをした挙句、歌を読み解くヒントが見えた気がしたのは、この歌の万葉歌碑が建てられている藤原宮跡から天香具山を仰いだときでした。正確には、万葉歌碑は藤原宮大極殿跡裏手にある醍醐池の畔に建てられており、この辺りはかつて天皇が住居する内裏があったところとされています。一般的には、この歌が詠まれたのは、このあたりと考えるのが一番穏当ですが、現地を訪れてみて私が感じたことは、この歌は果たしてこの場所から詠まれたのだろうかという疑問です。
ここから天香具山まではおおよそ1kmほどで、写真の通り、その途中に景色を遮るものがありません。しかし、彼の地を訪れてハタと気がついたことですが、当時は宮殿の建物が林立しており、高い塀で囲まれていました。しかも天皇の常在する場所は、内裏と呼ばれる外部と遮断された空間と政治を行う大極殿院に限られていたので、天皇が藤原宮に居られる限り、眺望はさらに妨げられていたはずです。宮から、大和三山は見えていたとは思いますが、裾野は建屋で遮られて、その頂上部だけが塀越しに見えただけではないでしょうか。現代とはかなり眺望が異なっていたはずで、とすれば持統天皇がこの位置からこの歌を詠むということが果たして成立しえたのでしょうか。宮から見た景色を示した万葉歌に次があります。

01-0052 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒たへの  藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に  あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の  大き御門に 春山と しみさび立てり 畝傍の この瑞山は  日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨の 青菅山は  背面の 大き御門に 宜しなへ 神さび立てり 名ぐはしき  吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける  高知るや 天の御陰 天知るや 日の御陰の 水こそば  常にあらめ 御井の清水 作者不詳

この歌に、"大和の 青香具山は 日の経(たて)の  大き御門に 春山と しみさび立てり"とあり、このことから、"藤原宮らから見ると東の方角に、宮域を隔てる大きな門があって、その向こうに春山としてこんもり茂って立っている天香具山"という景色が読み取れます。
それともうひとつの疑問は、宮から1kmほど離れた天香具山に干された衣を、果たして肉眼で見ることが出来たのかということです。たとえ宮からそれが見えたとして芥子粒のような大きさでしかなく、青い山の中に点在する白い点を見て、このような歌を詠むことがあるでしょうか。私にはこの歌が遥か彼方の遠景を詠んだ歌であるとは思えないのです。特に、白妙の衣は、天香具山の前景として存在しなければいけないと思うので、距離はせいぜい50メートルから200メートルくらいの近景だろうと思うのですが如何でしょうか。
それと、白妙の衣が天香具山の高いところにハタハタと掛けられていたという景色は想像しにくいのです。この山は、里山に毛が生えたくらいの低い山ですが、あえて"天の"と冠詞がつくほどに神聖な御山とされていて、いわば天皇家の山といってよいと思います。"青香具山"とも呼ばれる天香具山には、山の頂上部に狼煙台のような公的な建造物くらいはあったでしょうが、それ以外に建屋がなかったのではないでしょうか。
このように考えると、持統天皇がこの歌を詠んだのは宮中ではなくて、そこより出でて、天香久山の麓に近いところに別宮のようなものがあって、そこから山の方角を望んで詠ったのではないかと推論できます。そのほうが自然ではないかと思います。
残念ながら、藤原京の苑地遺構や別宮の存在が確認されたという報告を、私は知りません。ただし、その前の飛鳥京では、草壁皇子邸宅跡の"島の庄遺跡"や飛鳥浄御原京に付設した大規模な苑地遺構が発見されていますし、平城京では、宮廷内の"東院庭園遺跡"や宮廷の外郭に存在した広大な"松林苑"の址が確認されています。どういうわけか藤原京にその痕跡が発見されていないわけですが、唐の長安城を模した藤原京にそれがないはずがなく、地勢的にそれを求めるとすれば、天香山北麓しかありえないのです。
藤原京は、中国式の都城を取り入れて南面していますが、南側が高くなっており、したがって、都の中央を流れる飛鳥川は、南西の方角から斜めに北流して宮域の前を横切っています。もしこれをせき止めて宮域の南側に園地を作ってしまうと、一度洪水が起こると、宮殿が水没してしまう可能性があります。飛鳥川は、季節によって水量が激しく変わる川であったとされていますが、飛鳥川をコントロールして大規模な苑地を造成することは簡単でなかったはずです。藤原時代の飛鳥川は、これを避けるために、宮前を斜めに横切る水流を、天香久山西麓を真っ直ぐに北流するように付け替えられていたとする説があるくらいです。
そのように考えると、藤原京の域内に独立峯として存在する天香久山の地勢が、大規模な苑池を造営するには相応しかったように思います。実際、天香久山北麓には、持統天皇が堤で国見をしたという"埴安池(はにやすいけ)"や大津皇子が自死を賜ったという"磐余池(いわれいけ)"があったと万葉集や記紀に伝わっています。もしかしたら、付け替えられた飛鳥川の水流が、大規模な苑地造成に活用されたのかもしれません。現在、埴安池と磐余池はなくなっていますが、中世に飛鳥川が氾濫して元のように斜めに北流するように流れが戻ったため、水源が枯渇したと考えることも出来ます。私は、埴安池あたりに持統天皇の別宮があって、そこでこの歌が詠まれたのではないかと推測しています。
それでは、もうひとつの疑問点である"白妙の衣"とはいったい何なのでしょうか。これはおそらく苑地を取り囲んで建てられている高級貴族の邸宅の干し物ではなかったかと私は考えています。例えば、当時天皇あるいは皇太子に次ぐ地位にあった太政大臣の高市皇子は、埴安池の畔に邸宅を構えていとされており、草壁皇子と皇位を争う位置にあった大津皇子の邸宅は磐余池畔にありました。大伴家の総帥であった大伴旅人の邸宅もこのあたりにあったと推測されます。要するに高位高官の邸宅が、これらの池泉の周りに集中していた可能性があります。そのように考えると、持統天皇の別宮から天香山を望んだとき、池を挟んだ対岸に高級貴族の邸宅にたまたま白妙の衣が干されていたという景色を想像することが出来るのです。
この歌の解説に、"白妙の衣"は、宗教儀式の浄衣であり、この季節にこれを使用する習慣が大和地方にあったという説をよく見かけますが、一応民俗学的な知見も調べている私には、何のことかよくわかりません。そんな習慣がどこかにあるのでしょうか?
おそらく、大和地方に広く行われる"岳登り"の習慣のことを指していると思われますが、これがこの時代にも行われたという証拠はなく、また白妙の衣を着たという意味がよくわかりません。あるいは、万葉の時代によく行われた春菜摘みの行事を指す場合もあるかと思いますが、やはり春菜摘みの行事に白衣を着たという理由がよくわかりません。むしろ菜摘み行事には、次の歌にあるように、杜若を摺り染めた有色(紫色)の派手な衣を着たようです。

17-3921 かきつばた 衣(きぬ)に摺り付け 大夫(ますらお)の 着襲(きそ)ひ猟(かり)する 月は来にけり 大伴家持

私は、単純にこの季節におこなわれている衣替えの衣装干しが行われている様子でよかろうと考えています。そのほうが自然ではないでしょうか。なお、"白妙の衣"を、卯の花であるとか、季節外の雪とする説がありますが、その意味が正直よくわかりません。
卯の花は、初夏の花ではありますが、陽暦の5月下旬から6月初旬が開花期で、5月初旬に咲いたのを見たことがありません。毎日、奈良近郊の里山を眺めている私としては、この微細な違いは決定的と思います。例えば5月初旬に咲く躑躅の花と5月下旬に咲く卯の花は、一緒に咲いていることを見たことがないというのと同じ理由で、白妙の衣が卯の花であることは絶対にないと思います。
初春の雪を白妙衣として詠み込んだと言う解釈も、完全否定は出来ませんが、、比喩の多用によって、歌の性質が弱くなってしまっています。まるで、古今調のようで、万葉振りの強さがまるで感じられません。
最後に、この歌を詠んだ持統天皇の年譜を調べていて気がついたことですが、持統天皇が天皇の位を継がせたがっていた最愛の息子"草壁皇子"は、持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に突然亡くなっています。太陽暦で5月7日という季節は、まさしく"春過ぎて夏来るらし"季節であって、持統天皇は、この歌の中に草壁皇子を偲ぶ気持ちを込めたのではないでしょうか。ちなみに、2011年の"立夏"は、5月6日です。
もう一言付け加えるならば、草壁皇子が亡くなったとき、都はまだ飛鳥浄御原京にありましたが、その浄御原京の立地は、北面して約2キロほど彼方の天香久山と正対していました。すなわち、持統天皇が最愛の皇子をなくしたとき、その一風景として天香久山が確実にその眼前にあったはずです。その後、藤原京を造成して宮殿も移転されるわけですが、両所に共通して望むことが出来た景色は、この山だけであったという紛れもない事実です。持統天皇は、天香久山を亡き草壁皇子と重ね合わせて見ていたのではないでしょうか。
そのように考えると、この歌が万葉集の28番歌に取り上げられてた意味がハッキリ見えてくるのです。これらの意味を付け加えて、思い切った対訳をこころみると次のようになります。

天香久山を望むと埴安池の対岸に白妙の衣が干されているのが見える。既に衣装の虫干しの季節で、春が過ぎて、夏がやってきたように思われる。考えてみると、最愛の草壁皇子が亡くなったのも、この頃であった。かつて浄御原宮で見たあの天香久山を今眼の前に望むと、亡くなった皇子のことが思い出される。

我ながら、かなり思い切った解釈だと思いますが、一般的な解釈ではこの歌の重要性がサッパリ見えてきません。持統天皇は、天武天皇が亡くなった後の後半生、草壁皇子の立位に腐心し、、そして道半ばで草壁皇子がなくなってしまった後には、その正嫡である軽皇子(文武天皇)を天皇に据えることにその生涯を捧げました。亡き草壁皇子の面影をこの歌に込めたという私の解釈は、あながち荒唐無稽ではないと思うのですが、如何でしょうか。
(記: 2011年1月1日)

トップ頁 プロフィール 万葉の風景 万葉の花 作家の顔 雑歌 相聞歌 挽歌 雑記帳 リンク

万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/1/1 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

inserted by FC2 system