万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


03-0416 百(もも)伝ふ 磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 大津皇子 磐余池跡




写真: 磐余池跡を御厨子観音の門前から望む
Apr. 3 2010
Manual_Focus, Lens75mm, Format67
RVP100F

題詞に"大津皇子、自死を賜るときに、磐余池の堤で、涕を流して作られた歌一首"とある。
"磐余池に鳴く鴨を見ることも今日を限りとして、私は死んでいくことだろう。"

大津皇子は、天武天皇の皇子で天智天皇の娘の大田皇女を母に持ち、皇太子の草壁皇子とほぼ同年齢にして同等の血脈(天武天皇の皇子、天智天皇の娘の鸕野讃良皇女(後の持統天皇))を誇る皇位継承上のライバルの関係にありました。『懐風藻』には、大津皇子が「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」と、その器量が並々でなかったことが記されています。
ところが、686年9月に天武天皇が崩御すると1ヶ月も経たない10月2日に、親友であった川島皇子の密告により謀反の疑いで捕えられ、早くも翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸で死を賜りました。皇后であり、草壁皇子の母であった鸕野讃良皇女の謀略であったとされています。
現在、磐余池はなくなっており、その場所についてはいくつかの説がありますが、橿原市の御厨子(みずし)観音と桜井市の稚桜(わかざくら)神社にはさまれた地域がかつての磐余池の跡とする説が最有力です。
この写真は、天香具山の麓にある橿原市の御厨子(みずし)観音の門前から、かつての池跡とされる方角を撮影したもので、この左方約1kmのところに、稚桜(わかざくら)神社の丘陵があって、その間にかつての堤防の跡らしい地面の隆起が見られます。この隆起部分には"池尻"の地名が残っており、今もこの地域の水流を遮っています。御厨子観音の門前が唯一のこの広がりからの水流の出口になっており、その地勢からみて、この1地点が土塁で遮られると、目前の田畑は山裾に至るまで水面下になってしまうと想像できます。磐余池は人工池としてはかなり広大なものであったと考えられます。おそらく、大津皇子が自死を賜ったとされる磐余(いわれ)の訳語田(おさだ)の自邸も、この磐余池の畔に存在したに違いありません。
(記: 2010年7月25日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/7/25 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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