万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


03-0426 草枕 旅の宿りに 誰が嬬か 国忘れたる 家待たまくに 柿本人麻呂 天香具山




写真: 天香具山麓、万葉歌碑前に佇む石仏
Oct. 10 2009
Manual_Focus Lens105mm, Format67
RVP100-F

題詞に、「柿本朝臣人麻呂、香具山の屍を見て、悲慟(かなし)びて作る歌1首」とある。"旅先のこの香具山に横たわって死んでいるのは誰の夫であろうか。果たして国のことを忘れてしまったのであろうか。家人待っているであろうに。"

写真の石仏は、香具山山麓の"古池"の畔にあって、その正面に対を成すかのように冒頭の柿本人麻呂作万葉歌の歌碑が建てられています。"古池"は近世に作られた池なので、伝説上の埴安(はにやす)池とは別物ですが、堤防が高台になっており、北に向って眺望が開いて絶景なので、私はよくここに参ります。持統天皇が藤原京建設の際に行ったという国見は、現在姿かたちもない香具山畔の埴安池の堤防から行ったとされています(巻1-0052番歌)が、おそらくここからの眺めと似ているのではないでしょうか。
さて、柿本人麻呂は、宮廷歌人として皇族の死を悼んで壮大なスケールの挽歌を歌うことを生業としていましたが、時々どうしたことか名も無き者の死を哀れんで、このような真逆の歌を作っています。人麻呂が宮廷に奉仕していた持統天皇の御世は藤原京が造営されたので、徭役によって全国から人力が大量に徴用されました。都建設の重労働はたいへんなもので、また地方から都への往復は費用が自前であったので、多くの人が家に帰ることもなく、路傍の露と消えたのです。人麻呂は、実際にこの香具山で行き倒れの人を見たのに違いありません。
この歌を声に出して詠んでみるとよく分かりますが、一節毎に音律が切れて、文意も激しく転換して、濃密で畳み掛けるような調子が独特です。短い歌でありながら、暗く激しい歌です。
万葉集には行き倒れた人を悼む歌がいくつかあります。一番古いところでは、聖徳太子の片岡飢人伝説(巻3-1415)が有名です。記紀にも載っていので、当時巷間に広まっていた話に違いが無く、人麻呂の歌は聖徳太子の歌から影響を受けて作歌された可能性があります。
また人麻呂には、かつて讃岐国の中水門(なかのみなと)から船出して、航海途中に突風に遭って、狭岑島(坂出市多沙弥島)に避難したことがありましたが、そのときにも浜辺で名もなき者の屍を見つけて、その死を悼んで次の歌を詠んでいます。

02-0220 玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 那珂の港ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波騒く 鯨魚取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは 柿本人麻呂

この時代、華やかな宮廷から足を一歩踏み出すと、死はすぐそこにありました。柿本人麻呂は、石見赴任中に刑死したとする伝承があり、名も無き者の死を悼む歌は、結局自身の死と重なって、重く暗い文学へと変貌したのです。
(記: 2009年10月31日)


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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/10/31 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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