万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


01-0029 玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの 御代ゆ 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え  いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも 柿本人麻呂 近江古京
(弘文天皇陵)
01-0030 楽浪(ささなみ)の 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の舟 待ちかねつ 柿本人麻呂 近江古京
(唐崎)
01-0031 楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも 柿本人麻呂 近江古京
(唐崎)




写真: 唐崎の松
May 1 2009
Manual_Focus Lens55mm, Format67
RVP100

柿本人麻呂の長歌(29番)、所謂"近江荒都歌"の反歌のひとつ。"滅んでしまった近江京の志賀の唐崎は、幸いにも昔と変わらずにあるが、昔ここで大宮人が遊んでいた船を待っても、再び見ることは出来ない"という意味。

縁起によると、舒明天皇6年(633年)に、琴御館宇志丸宿弥(ことのみたちうしまろのすくね)がこの地に居住して「唐崎」と名づけたと伝えられています。持統天皇の頃(697)に彼の妻で現在の祭神である女別當命(わけすきひめのみこと)がこの地に松を植えて唐崎神社を創建したとされて、柿本人麻呂がこの歌を詠んだその時期に神社が建てられたことになります。今境内に枝を張っているご覧の"唐崎の松"は三代目にあたるそうです。
なお、近江京のあった667年から672年にかけて、唐崎神社と"唐崎の松"は無かったことになります。おそらくは、物資を調達するための重要な船着場であったものが、近江京が廃されてから神社が建てられたのでしょう。
江戸時代には、近江八景のひとつに「唐崎の夜雨」が選ばれて、この唐崎の松と夜雨の取り合わせが有名になりました。歌川広重の浮世絵に、この唐崎の松が描かれたりしています。芭蕉の「辛崎(からさき)の 松は花より 朧(おぼろ)にて」の句が残っています。むしろこちらの俳句のほうが万葉歌より有名かもしれませんね。
なお、この歌は、天智天皇が亡くなったときに舎人吉年(とねりよしとし)が詠んだ挽歌(152番歌)"やすみしし 我ご大君の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の唐崎"を踏まえて作られた歌と考えられます。志賀の唐崎は、近江京があった時代には重要な港で、貴族の船遊びの場所でもありました。
(記: 2009年6月1日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/6/1 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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