万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


17-3907 山背の 久迩の都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉にほひ 帯ばせる 泉の川の 上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し あり通ひ 仕へまつらむ 万代までに 境部老麻呂 恭仁京
17-3908 たたなめて 泉の川の 水脈(みお)絶えず 仕へまつらむ 大宮ところ 境部老麻呂 恭仁京




写真: 海住山寺参道から恭仁京のあった瓶之原(みかのはら)を望む
Mar. 20 2009
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100

"三香の原(みかのはら)の新しき都を讃むる歌一首"という題詞があり、恭仁京に遷都して間もない天平13年(741年)に右馬頭境部宿禰老麿が作った長歌。「山背国の恭仁の都は、春が来れば花が咲き乱れ、秋が来れば黄葉が美しく照り映えて、都を帯のように巡って東西に流れる泉川(木津川)の上瀬には板橋を渡して、淀瀬には舟を繋いだ浮橋を渡してある。いつも通って万代までお仕えしよう。」という意味。

聖武天皇は、藤原広嗣の乱が起こった天平10年(738年)頃から平城京を出て、度々遷都を繰り返しました。天平12年(740年)に京都府相楽郡加茂町(恭仁京)、天平15年(743年)に滋賀県甲賀町信楽町(紫香楽宮)、天平16年(744年)に大阪市中央区(難波宮)へと遷都を繰り返した後、天平17年(745年)にようやく平城京に戻ってきます。
この時代災害、動乱、政争が立て続けに起こりました。特に、天皇親政を目指して聖武天皇を支える橘諸兄一派ならびに旧豪族達と、藤原氏出身の光明皇后を頼りとする藤原氏一族との対立はすさまじく、聖武天皇は藤原氏野勢力が根強い平城京を出たかったのかもしれません。事実、恭仁京のあった山背盆地一帯は、橘諸兄の勢力の強かったところです。その意味では、天平17年(745年)の平城京帰還は、橘諸兄勢力の敗北を意味しています。その後、天平勝宝元年(749年)に孝謙天皇が即位して、光明皇后を後ろ盾に藤原仲麻呂全盛時代となり、橘諸兄一派は劣勢が明らかになります。天平勝宝7年(755年)には諸兄は失脚し、その2年後にはなくなってしまいます。
さて、この写真は、恭仁京の後背地にある海住山寺の参道から瓶之原(みかのはら)全景を撮ったものです。中央やや右手の原っぱが恭仁宮跡で、その上手の緑の森が大極殿のあったところです。また、その上に左右に長く伸びる緑地帯が泉川(木津川)の土手の竹林で、その向こうに遠く見えるマンション街はJR加茂駅の辺りです。
なお、右手遠くに見える半円形の山陰が"鹿背山"で、横長であった"恭仁京"を右京と左京に分かっていました。
(記: 2009年4月19日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/4/19 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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