万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


17-3907 山背の 久迩の都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉にほひ 帯ばせる 泉の川の 上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し あり通ひ 仕へまつらむ 万代までに 境部老麻呂 瓶之原
(恭仁京跡)
17-3908 たたなめて 泉の川の 水脈(みお)絶えず 仕へまつらむ 大宮ところ 境部老麻呂 泉川
(木津川)




写真: 恭仁橋から木津川を望む
Mar. 20 2009
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100

"三香の原(みかのはら)の新しき都を讃むる歌一首"という題詞があり、恭仁京に遷都して間もない天平13年(741年)に右馬頭境部宿禰老麿が作った長歌の反歌。「泉川の水脈が絶えないように、いつまでもこの大宮にお仕えしよう」という意味。

奈良の国中平野には、大きな河川がありません。唯一大和川が目立つものの、それでも木津川と比べると水量は半分ほどにも満たないのではないでしょうか。加えて、木津川水系は、東に木津川を遡行して伊賀に、北東に宇治川を経て琵琶湖に、北に保津川・加茂川を経て京都盆地・北山・亀岡に、西に淀川を経て、難波・瀬戸内に直接つながり、極めて交通の便に恵まれていました。
また、藤原京、平城京は、律令制度を取り入れて中国式の都であったため、それまでの飛鳥時代の都城に比べると都市の抱える人口が爆発的に増えて、大和盆地の排水能力が大きな問題になりました。奈良盆地における水利衛生上の許容量を超えてしまい、具体的には、藤原京で「京城の内外に多く穢臭あり」という事態に至り、平城京でも赤水が出たり、疫病がはやることが度々起こりました。平城京の人口は軽く10万人を越えて世界有数の大都市に成長していましたから、より高度な水利を伴う都市構造が求められていたようです。
奈良時代中頃の天平12年(740年)、聖武天皇は恭仁京への遷都を行いました。その最大の理由は、藤原氏の専横から逃れるためであったことに間違いありませんが、平城京の欠陥を補う水利に恵まれた良地を探すこともその目的に含まれていたと思われます。その意味では、恭仁京のあった瓶之原は、広い土地ではなかったものの、水に恵まれており、それなりに理に適った場所であったというべきでしょうか。50年後桓武天皇によって行われた長岡京あるいは平安京への遷都の魁を成す事件でした。
(記: 2009年4月19日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/4/19 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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