万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


12-2951 海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に 立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも 作者不詳 海石榴市




写真: 旧初瀬街道、海石榴市の辺り
Aug. 8 2008
Manual_Focus Lens50mm, Format645
RVP100

海石榴市で行われた歌垣の歌。「海石榴市のたくさんの道の交差する辻で、地を踏みならして踊ってあの人と愛を誓って結んだ紐を解くことは惜しいことだ」という意味。

海石榴市は、大和川水運の最上流の船着場にあたり、しかも、南の山田道・磐余道から飛鳥に、北の山之辺の道から三輪・巻向に、東の初瀬街道から伊賀・伊勢・東国に、西の横大路から藤原京そして遠くに難波に通ずる交通の要所にありました。正に八方に通ずる古代のメインストリーム(八十の街)であったわけです。このような交通の要所には市が立つことが多く、また盛んに人が集って歌垣が行われたことが知られています。この歌も歌垣で行われた歌掛け(男女が歌を掛け合う)の歌であろうと思われます。
歌垣にもいろいろな種類があって、市の歌垣、山の歌垣、、田おこしの歌垣、稲刈りの歌垣、稲搗きの歌垣、特に東国で行われた麻刈りの歌垣、布さらしの歌垣など多種多様の形態のものがありました。また、宮廷には中国伝来の歌垣に似た"踏歌(とうか)"という行事があり、集団で歌掛けすることが盛んに行われました。この時代は、よほど歌の掛け合いが盛んだったようで、民間の歌垣が流行り過ぎて風紀紊乱を招いたので、遂に天平守護2年(776年)には里中の歌垣が禁止される事態が起こりました。(辰巳正明氏著"歌垣" 新典社新書による) このようにみてくると、万葉集の和歌は、民間の歌垣の歌掛けを唐風の"踏歌"に再編する過程で成立したと考えることも可能と思います。
さて、この歌で詠われた内容から、海石榴市の歌垣は辻(八十の街)で行われて、地を踏み平すように踊ったことがわかります。また、紐を解くのが惜しいとありますが、男女で歌掛けを行って愛の約束にいたったとき、二人でこっそり衣の下に紐を結び合うという習慣がこの時代にありました。
なお、写真は、現在の金谷(かつての海石榴市辺り)の旧初瀬街道を撮ったもの。海石榴市は、中世以降も長谷寺・伊勢神宮参拝の宿場町として大いに賑わいました。
(記: 2009年3月22日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/3/22 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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