万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


09-1723 かわづ鳴く 六田(むつた)の川の 川柳(かわやぎ)の ねもころ見れど 飽かぬ川かも 柿本朝臣人麻呂歌集 六田




写真: 六田の"柳の渡し"跡
May. 1, 2011
Manual_Focus Lens105mm, Format67
RVP100F

柿本人麻呂集より。題詞に"絹の歌一首"とある。絹は伝未詳の人物名か。
"かわずが鳴く六田の川の川柳の根のように、ねんごろにジックリ観ても、吉野川は飽きないことだ。"

柳の渡しは、平安初期に聖宝理源大師が開いたと伝わり、吉野修験が最初におこなう水垢離の行場でもあります。かつて柳の渡しは、現在地よりやや上流の美吉野橋あたり(大正8年架橋)にあったとされ、橋が出来るまでは渡し舟や徒歩で渡っていたようです。柳の渡しがあったために、古来六田には吉野地方の人や物産が集まり、宿場町として大いに賑わいました。
それでは、理源大師が柳の渡しを開設する以前、この万葉歌が詠われた頃、六田の風景はどのようなものであったのでしょうか。当時の吉野地方の状況を私なりに纏めてみました。
  1. 7世紀、吉野修験を開いた役小角は、吉野川から北方の葛城を本拠として、最初葛城山や金剛山で修行していたが、吉野地方にも修行の場を求めて、吉野山に金峯山寺を建立し、大峯奥駈道を開いた。
  2. 六田北岸の大淀町には世尊寺(白鳳伽藍)があって、吉野修験の最初の本拠地は、世尊寺であったと推測される。
  3. 壬申の乱(672年)が起こる直前、大海人皇子(後の天武天皇)が近江京から逃れて吉野に入るとき、最初にこの世尊寺に入った。乱勃発後大海人皇子が吉野から東国へ逃れる際には、役小角らがこれを導いたという伝説が残る。
  4. 8世紀には、唐の高僧道遷が世尊寺に隠遁し、また奈良時代初期の名僧神叡(法相六祖の一人)も20年にわたってここに籠って自然智を感得したとされ、世尊寺は密教の根本道場をなしていた。
  5. 9世紀前半に現れた修験道中興の祖の理源大師(都での拠点は醍醐寺)は、吉野修験の再興に尽力した。ただし、吉野での拠点は、吉野山の南に位置する鳳閣寺(奈良県吉野郡黒滝村)であった。
  6. その後、平安時代を通じて貴顕の大峰詣出が大いに行われて、 宇多上皇、藤原道長、藤原頼道、藤原師通、白川上皇らが、金峯山寺に詣でた。
このように、7世紀後半、この歌が詠われた頃には、この辺りが既に交通の要所であったことが十分推察されます。むしろ、六田北部にあった世尊寺(当時比曽寺といった)の存在が大きく、当時も六田は吉野川渡途の中心拠点であったと思われます。

ところで、日本霊異記によると、役小角は神々に命じて、吉野の金峯山寺と葛城山との間に岩の橋を架けさせようとしましたが、一言主神がこの難事業に困惑して小角に反逆の意があると朝廷に訴え出たために、役小角は伊豆に流されたとされています。日本霊異記は、必ずしも信頼性の高い文献では在りませんが、その反面当時の民間伝承をダイレクトに伝えているという特色があり、その意味では必ずしも根も葉もないとすることは出来ません。
私の推測ですが、役小角は完成した吉野修験の奥駈道を、彼の本拠地の葛城地方の山々とドッキングしようとして、吉野川に橋を掛けようとしたのではないかと考えているのですが、如何でしょうか。それであれば、架橋に相応しい場所は、この六田ということになるのですが・・・。

さて、万葉歌に話を戻すと、「ねもころ」という言葉がキーワードになっています。「ねもころ」とは「根も凝ろ」と書き、現代語の「ねんごろ」にあたります。植物の細かい根が土とともに凝り固まっている状態を指すことから、「精細に」という意味に使われます。この歌では、川柳の掛詞になっています。

同じ語法に次の歌が在ります。

04-0580 あしひきの 山に生ひたる 菅の根の ねもころ見まく 欲しき君かも 余明軍
山に生えている菅の根が細かく分かれて入り組んでいるように、精細によくよく見たいと思う君である。

(記: 2011年6月11日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/6/11 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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