万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


08-1598 さを鹿の 朝立つ野辺の 秋萩に 玉と見るまで 置ける白露 大伴家持




写真: 山之辺の道の萩
Oct. 10, 2011
Manual_Focus, Lens35mm, Format35mm
RDPV

題詞に"大伴宿禰家持の秋の歌三首"とある。また後記に、"右のものは、天平十五年癸未秋八月に、物色を見て作れりなり。"と注がある。"物色を見て作れり"とは、実際に物を見て作ったということ。
"雄鹿が朝に立っている野辺の秋萩に、玉かと見えるほどの白い露が置かれている"

最近は、万葉集の題材を拾うために、古いニコンに35mmの単焦点をつけて、自宅近くを徘徊することが多くなりました。幸い、近くには散歩コースが多くて、しかも万葉集と重なることが多いので、ブラブラにはもってこい。平城宮跡から佐紀・佐保・奈良山にかけてはいつもの散歩コースだし、奈良公園や西の京あたりも自宅から歩いていける距離です。足を少し伸ばすと飛鳥や斑鳩あたりもカメラ散歩にはもってこいで、この写真の山之辺道あたりも最近よく行くところです。
目的は、このホームページの画像を拾うことなので、ハイキングをしているのとは異なるので、自然と回り道が多くなります。お目当ての歌を最初から決めてその画像を探しにいくときは、私は中判カメラを使用して三脚で撮ることにしているので、したがって移動は自動車ということになりますが、逆に小さいカメラでブラブラ散歩をしながら撮る場合には、歌を最初から特定せずにイメージ画像を探すような撮り方をしています。今回の写真は後者のほうで、まずこの写真が先に撮れたので、それに合わせてこの1598番歌を選んだような次第。
万葉集の写真を撮り出してから、「萩」の写真は相当数撮っています。ところが、なかなか野生の萩で、よい姿のものは珍しく、その多くは寺院や庭園などでみかける人の手が掛かったものがほとんど。この写真は、珍しく野生の萩で、しかも日本最初の国道とされる山之辺道が背景にうまく入りこんで格好よく仕上がりました。こういうボケ味の効いた写真は、どちらかというと、古いフィルムカメラのほうが感じが出来ます。デジタルでも、ソフトで色調調整が可能で、プロあたりは驚くような画像を提供されますが、写真を撮る瞬間のイメージを重視するような私のようなタイプには、むしろ頭の中で想定しているイメージをそのままリバーサルフィルムに焼き付けるアナログ写真の方が喜びが大きいように思います。失敗は多々ありますが、良い写真が撮れたときの感動が大きいのです。一期一会とはこういうことをいうのでしょうか。

さて、この歌は、秋の典型的なパスワード「萩」「鹿」「露」を詠み込んで、絵を描いたような秋の景色がストレートに詠われています。
万葉集には、植物を詠み込んだ歌が多く在りますが、「萩」はその中で一番数が多いとされています。数えてみると、萩を詠み込んだ万葉歌は141首在ります。2位の梅が119首で、3位には松の88首、4位には橘の66首と続きます。この時代には春は梅、秋は萩というのが、花の代名詞であったことになります。ちなみに、後に日本の花の代表格とされた桜は42首しかありません。
何故、春の梅、秋の萩が万葉歌の代表であったのかということですが、まずこれらの歌の多くが、万葉集巻8あるいは巻10に掲載されているということが大変重要です。万葉集巻8と巻10の多くは、春夏秋冬の雑歌あるいは相聞歌が集められた巻で、雑歌でも公式行事で詠われるような叙事歌はほとんどなくて、宴会等で詠われる題詠歌、あるいはこの大伴家持のような後期万葉歌人が得意とした、平安時代の古今調の萌芽ともなる、独詠的な叙景歌がほとんどです。
貴族の宴会の多くは、大陸的な造園技術をもとに作られた宮廷庭園あるいは貴族の園地で行われたと考えるべきで、その意味では、梅と萩が当時の代表的な園芸花樹であったと考えられます。「梅」が大陸渡来の樹木であるのに対して、「萩」は日本古来の植物であるため、詠まれた歌は、古来の歌の形式を用いて、さも野辺で詠ったかのような表現がされますが、それは文学的な修辞法というものです。
800年後、戦国時代に興った茶道では、深山幽谷のあばら家を再現して茶室と茶庭を創始しましたが、そこに植えられた椿は、厳選された園芸樹木としての"侘び助椿"でした。江戸時代の俳人は、草庵の侘び助椿を季語に盛り込んで歌を作りましたが、全くの野生の中にあったわけではありません。そのことと状況が似ているように思います。万葉の時代にあっても、庭園は深山幽谷を模して、自然の景色を再現したものが尊ばれたに違いなく、「萩」を詠った歌の多くは、実は庭園の萩を見て詠ったものに違い在りません。
この歌には、後記として"右のものは、天平十五年癸未秋八月に、物色を見て作れりなり"の注がありますが、"実際に見て詠ったのだ"という注記をしなければならないほど、絵に描いたような典型的な秋の景色が詠われていることを逆に示しています。
「さを鹿」とは、雄鹿のことで、雄鹿は冬に角を落として、春に新しく角を生やし始め、秋に一番角が大きくなるために、「さを鹿」は、特に秋を象徴するの動物として認識されていました。また、「鹿」という言葉は、「萩」との連結性が強い語彙で、「萩」といえば「鹿」、「鹿」といえば「萩」というまるで花札のようなイメージが、古代人には出来上がっていたようです。実際に、「鹿(あるいは「さを鹿」)」を「萩」の掛詞として使用している例がいくつかあります。
また、3つ目のパスワード「露」という詞も、「萩」との連結性が強い言葉です。「萩」に付く露(あるいは萩に降りる白露(霜のこと))が、秋を代表する情趣のひとつとして認識されていたに違い在りません。
ちなみに、 「萩」を含む万葉歌は141首、「鹿」を含む歌は90首、「露」を含む歌は114首ありますが、このうち、「萩」と「鹿」の両方を含む歌は23首もあり、「萩」と「露」を両方を含む歌も36首あります。それに対して、「鹿」と「露」の両方を含む歌は8首ありますが、このうち7首は「萩」も含むので、下図を見れば一目瞭然ですが、萩-鹿-露のトライアングルは、萩-鹿、あるいは萩-露の機軸によって成っており、鹿-露の関係性は希薄であることがわかります。


この1598番歌の重要性は、まさに後記の"右のものは、天平十五年癸未秋八月に、物色を見て作れりなり"の注にあって、実際に見たと注記を必要とするほどの素晴らしい景色を実際に見たという事実にあると思います。もし、この歌が、宴会の席で詠われたのだとすると、まるでどこかで聞いた演歌の繰り返しのようなもので、欠伸一発ものだったに違い在りません。

最後に、1598番歌と同じく、萩-鹿-露の3語を含む万葉歌7首を列記すると次のようになります。

06-1047 やすみしし 我が大君の 高敷かす 大和の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも 田邊福麻呂歌集
08-1547 さを鹿の に貫き置ける の白玉 あふさわに 誰れの人かも 手に巻かむちふ 藤原朝臣八束
08-1580 さを鹿の 来立ち鳴く野の 秋萩は 露霜負ひて 散りにしものを 文忌寸馬養
08-1598 さを鹿の 朝立つ野辺の 秋萩に 玉と見るまで 置ける白露 大伴家持
08-1600 妻恋ひに 鹿鳴く山辺の 秋萩は 露霜寒み 盛り過ぎゆく 石川朝臣広成
10-2153 秋萩の 咲きたる野辺は さを鹿ぞ を別けつつ 妻どひしける 作者不詳
20-4297 をみなへし 秋萩しのぎ さを鹿の 別け鳴かむ 高圓の野ぞ 大伴家持

現代人の我々にとって、類型的表現というものは、個性の喪失以外何物ではありませんが、日本の和歌では、「本歌取り」というような模倣文化もあって、むしろ"ソレソレ、それだよ〜"なんていうノリなのかもしれません。
(記: 2012年2月19日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/10/17 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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