03-0452 |
妹として ふたり作りし 我が山斎は 木高く茂く なりにけるかも |
大伴旅人 |
紅梅 |
写真: 大和文華館の紅梅
Mar. 1, 2009
Manual_Focus Lens150mm, Format67
RVP100 |
453番歌とともに亡き妻を偲ぶ歌。大伴旅人が、大宰府師の任を解かれて平城京佐保の自邸に帰って詠んだ。「亡くなった妻と一緒に作った私の庭は、4年の留守の後帰ってみると、随分小高く茂ってしまったものだ。」という意味。 |
大伴旅人と亡き妻の大伴郎女が一緒に作った庭とは、どんなものだったのでしょうか。山斎(しま)とは庭の山水のことで、具体的には庭に築かれた築山や池泉を指します。ですから、大伴旅人の邸宅に築山や池泉が築かれていたことは間違いないと思います。同じく万葉集に、日並皇子(草壁皇子)が亡くなったときに、その舎人が作った次の歌があります。
02-0178 |
み立たしの 島を見る時 にはたづみ 流るる涙 止めぞかねつる |
この場合、"島(しま)"は庭園の池泉を指しており、「皇子のお立ちになっていた庭園を見ていると、にわかに降る大雨のように流れる涙をとめることが出来ない」という意味です。日並皇子の宮殿は、大規模な庭園があったので、島の宮と呼ばれていました。2004年3月に飛鳥の石舞台古墳近くでこの宮跡が発掘されて、大規模な池跡が見つかったのは記憶に新しいところです。
また平城京に例を求めると、1975年に発見された平城京左京三条二坊の宮跡庭園が有名です。奈良時代の有力貴族の邸宅跡から見つかった貴重な庭園遺構ですが、既に平安時代の寝殿作りの庭園と同じく、自然を模してうねうねとうねるS字の池と洲浜が築かれていました。なお、公式の迎賓館の役割を担ったとされる平城宮域内の東院庭園遺構にもS字の池と洲浜が築かれていました。S字の池と洲浜は、日本式庭園の固有の特徴であり、既にこの時代にその様式が確立していたと考えられます。
ただし、平城京の地形は、京都と違って水の流れが極めて脆弱なので、自邸の中に池泉を築くことが出来たのは、皇族あるいは極めて地位の高い貴族に限られていたはずです。大伴旅人は大納言の要職に上り詰めた有力貴族のひとりだったので、このような山斎(しま)を築くことが出来たのです。 |
(記: 2009年3月14日) |
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