万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


03-0279 我妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ 高市黒人 名次山
03-0280 いざ子ども 大和へ早く 白菅の 真野の榛原 手折りて行かむ 高市黒人 真野
03-0281 白菅の 真野の榛原 行くさ来さ 君こそ見らめ 真野の榛原 黒人の妻 真野




写真: 名次山の黄昏
September 25, 2010
Manual_Focus Lens50mm, Format35mm
RDP100V

題詞に"高市連黒人の歌二首"とある。
"妻に猪名野は見せたので、いつか名次山と角の松原は見せてあげよう。"

高市連黒人は旅の歌人。万葉集に残る短歌18首のすべてが、旅先で詠われた歌です。特にこの歌と次の280番歌は、妻を帯同した旅の途中に詠われた歌で、それらの歌の後に、281番歌として黒人の妻の反歌一首が載っています。

03-0279 我妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ 高市黒人
妻に猪名野は見せたので、いつか名次山と角の松原は見せてあげよう。
03-0280 いざ子ども 大和へ早く 白菅の 真野の榛原(はりはら) 手折りて行かむ 高市黒人
さあ妻よ、大和へ早く帰ろう。真野の榛原(はりの木の原)から枝を記念に手折って行こう。
03-0281 白菅の 真野の榛原 行くさ来さ 君こそ見らめ 真野の榛原 黒人の妻
(訳) 真野の榛原は、あなたは行きも帰りもあなたは見られるでしょうけれども、私はそうでないのですから。

黒人は大和への帰りを急いでいたようです。
279番歌で、猪名野は、妻に見せてあげたものの、今回は景勝地の名次山と角の松原にはいけなかったので、いつか見せてあげようと詠い、280番歌では真野の榛原の榛(はり)を手折って大和へ急ごうと言っています。
それに返した妻の歌が面白い歌で、"行くさ来さ 君こそ見らめ"は、"あなた(黒人)は行ったり来たりすることができので、また見ることが出来るでしょうけれども・・・。"と恨みがましく詠っているのであり、"私は度々はこれないのですから、もう少しゆっくり見たいのです"と言外に匂わせているのです。また、「真野の榛原」を二回重ねて詠っているのは、子供が駄々をこねて"××が欲しい"と連呼するのと同じ効果があって、なかなか愉快です。
黒人が夫人を"いざ子ども"と子供をあやすような口調で読んでいるのは、"もう少しあちらこちら見たい"と駄々をこねる夫人を少々持て余していたからでしょう。

ところで、この歌には、摂津国において風光明媚とされた場所が三箇所も盛り込まれています。280番歌と281番歌に詠まれている真野の榛原も加えて、おのおの説明を加えておきます。
猪名野とは、今の六甲山東麓を南流する武庫川と伊丹市の東を南流する猪名川に挟まれた広大な平野部を指しています。式内社為那都比古神社(いなつひこじんじゃ)や発掘によって白鳳時代の伽藍配置が明らかになった猪名寺廃寺跡がJR福知山線の猪名寺駅近くに残っていて、高市連黒人の時代(持統朝)には、このあたりが船の工人集団である猪名部(いなべ)の住居地であったようです。同じ伊丹市内には、僧行基が開基した昆陽寺と昆陽池があって今に残りますが、高市連黒人は持統朝に活躍した人なので、行基による大規模な開拓より半世紀近く早くこの地を訪れたことになります。しかし、猪名野は、奈良朝を超えて平安時代に至ってもなお茫漠たる原野が広がっていたらしく、小倉百人一首に大貳三位の「有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」という歌があります。このあたりは「猪名の笹原」で有名でした。

地図 猪名寺廃寺跡 伊丹市HP: 猪名寺廃寺跡
伊丹市HP: 猪名の笹原

名次山は、現在の西宮市内北辺の丘陵部にあったとされ、式内社名次神社が、西宮一の高級住宅街とされる南郷山住宅の北辺に僅かに残っています。なんでも明治時代に南郷山中央に鎮座して鬱蒼とした杜であったものを、住宅開発を行うために現在地に移されてしまったようです。私が現地に行ってわかったことは、写真中央の小さい丘陵が名次山とされていること(南郷山はこの名次山を含めてその南の南郷山住宅を含んだやや広い地域)、そしてこの丘陵の北側(写真右)に小さい社(名次神社)が残ること、そしてその丘陵がかつて故松下幸之助翁の御邸宅であって、今も松下家が屋敷を引き継がれているということでした。このとき私は、黄昏時にもかかわらず、カメラ片手に小半時邸宅前をうろうろしていたので、不審者と間違われて、警備員の大男に度々睨みつけられれるという不名誉を蒙ってしまいました。
万葉の故地にこのような壮大な邸宅を構えることが出来るなどというのは、正に栄達の極み。幸之助翁の面目躍如たるものがあります。確かに才覚の地"大阪"ならではの出世譚ではありますが、景勝の地に邸宅を建てるために、肝心の神社が南郷山の裏手に移動させられてしまったというのも、どうも本当のようであります。
なお、同地の東の丘陵地帯には、広大な広田神社の境内(広田公園)があって、古代の名次山は広田神社の杜を含めた丘陵一帯をいったのではないかとする説があります。

地図: 名次山 西宮教育委員会HP: 名次山

角(つの)の松原は、阪神西宮東口のすぐ東の松原神社辺りを言うようで、大きく入り江になっていた西宮港(津門(つと)の入江)に突き出していた松原でした。万葉の時代には、白砂青松の景勝地でした。

地図: 角の松原跡 西宮教育委員会HP: 津門の入江

また、280番歌、281番歌の真野の榛原は、神戸市長田区真野地区が有力とされております。

地図: 真野地区 長田区HP :真野の高福寺
 
(記: 2011年9月25日)


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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/9/25 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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