万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


01-0025 み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を 天武天皇 吉野宮滝
/青根ケ峯




写真: 吉野宮滝遺跡より青根ケ峯を望む
Nov. 7 2010
Manual focus, Lens200mm, Format67
RVP100F

題詞に"天皇御製"とある。天武天皇の作。"吉野の耳我の嶺に雪が降る時は、絶え間なく振り続ける。雨が降るときは、間断なく振り続ける。その雪や雨が絶え間なく降り続くように、曲がり角になっても気をとられずに絶えず考えて、歩いてきたのだ、あの山道を。"

天武天皇が吉野に行幸されたのは、天智天皇10年10月(671年)に、天智天皇が重病になったときに、その疑いの眼を逃れるために、皇太子を退いて吉野に籠ったときと、壬申の乱の後天武天皇になってから天武8年5月(679年)に吉野行幸を行って、諸皇子を集めて誓約を誓わせたときの2回が記紀に見えます。そのほかにも吉野行幸が行われた可能性がありますが、次の26番歌が天武8年の吉野行幸の歌であることはほぼ確実なので、この歌も天武8年の吉野行幸の際に天皇が詠われたとする説が有力です。
天武8年の行幸で、天武天皇は、皇后と皇位継承権を持つ6人の皇子(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子)を召して、"自分は今日汝等とここで盟約し、千年後まで変事がないようにしたいがどうか"と言葉を発せられました。すると、草壁皇子が最初に進み出て、"天神地祇と天皇に誓います。我々兄弟、併せて十余王は、各々異腹より生まれました。しかし、同じであろうがなろうが、共に天皇のお言葉に従い、助け合い、背いたりなど致しません。もし今後この誓いに背いた場合には、命を落とし、子孫も絶えるでしょう"と誓われ、その後諸皇子もこれに応えて誓約を誓われました。世に言う「吉野会盟」です。
天武天皇の諸皇子の間で盟約を結ばせることで、天武天皇が目指す皇親政治を磐石にするとともに、皇子の間の序列を明確にして、世継ぎ問題が起こることを防いだとされています。この歌で天武天皇は、"曲がりくねった山道を歩くうち、寸暇も惜しまず考えに考え抜いたのだ"と言っています。天武天皇の苦心の様が偲ばれます。

ところで、この歌には、いくつかの類型歌が存在して、それらの歌との関係で、果たして本当に天武天皇が自ら歌ったものなのか、あるいは俗謡として既に存在したものが、天武天皇が詠った歌に伝承が転じたものか、いくつかの論争があります。

13-3260 小治田の 年魚道の水を 間なくぞ 人は汲むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子に 我が恋ふらくは やむ時もなし 作者不詳
13-3261 思ひ遣る すべのたづきも 今はなし 君に逢はずて 年の経ぬれば 作者不詳
13-3293 み吉野の 御金が岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その雨の 間なきがごと その雪の 時じきがごと 間もおちず 我れはぞ恋ふる 妹が直香に 作者不詳
13-3294 み雪降る 吉野の岳に 居る雲の 外に見し子に 恋ひわたるかも 作者不詳

特に3293番歌は、民謡の相聞歌ではありますが、さきの25番歌とそっくりです。冒頭に、地名の"み吉野"を含み、何らかの相関関係があったことは間違いがありません。
25番歌が先で、3293番歌がその影響下で後に詠まれたとする説。民謡の3293番歌が先で、それを踏まえて天皇が25番歌を詠まれたとする説、あるいは御製歌は後世の作り話で、民謡を土台に作り直したものであるという説、諸説いろいろです。
私見ではありますが、私は俗謡の3293番歌がまず先にあって、それを踏まえて、天武天皇が25番歌を詠まれたとする説が一番矛盾がないように思います。初期万葉の歌は、たとえ天皇や皇族の歌であっても、俗謡の修辞を借用したものが多数あります。独創的でなければならないと考えるのは、現代人の病気のようなもので、この時代の人には全く関係のない代物です。
私は、むしろ飛鳥で詠まれたであろう俗謡の3260番歌と、吉野で詠まれた俗謡の3293番歌が似ていることのほうが、古代の歌の在り方を考える上では重要ではないかと考えています。2つの歌は、双方ともに歌垣で広く詠われた歌謡であると考えられますが、このような別の場所によく似た歌が存在するということは、歌垣で歌われる歌謡は広く日本中を伝播して、派生歌を沢山生じたという事実を証明しています。
なぜこのようなことを言うのかというと、辰巳正明氏の「歌垣」という書籍に、吉野歌垣で詠われた歌として次の385番歌が挙げられており、加えてその歌が肥前国風土記逸文に記載されている杵島岳の歌垣の歌"杵島曲(きしまぶり)"に酷似していると解説されておられるからです。

万葉集
03-0385
霰降る 吉志美が岳(きしみがだけ)を 険(さが)しみと 草取りはなち 妹が手を取る
肥前国
風土記
逸文
平野の中に孤立して三つの峰が連なり、これを杵島山と名付く。西南の山を男神、中の山を女神、東北の山を子神とする。村里の男女は、酒を携えて毎年張ると秋の季節に、手を取り合って登り、景色を眺め、楽しみ飲んで、歌い舞い、曲が尽きても帰るのである。その歌には
霰降る 杵島が岳(きしまがだけ)を 険(さが)しみと 草取りかねて 妹が手を取る

なお、385番歌の"吉志美が岳(きしみがだけ)"とは、吉野のいずれかの峯であると考えられます。この歌は、題詞に"仙柘枝(やまひとのつえのえ)の歌三首"とあり、その注記として"右の歌は、或いは曰く、吉野の人味稲(うましね)の柘枝の仙媛に与えし歌そといえり。ただし、柘枝伝をみるに、この歌なし"とあります。さらに、この次の歌の左注に、"若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)誦む"とあるので、若宮年魚麻呂という人物が、歌を作ったというよりは、一般に知られた歌謡を宴席で歌ったということのようです。
また、肥前国風土記逸文の"杵島が岳"とは、現在の佐賀県杵島郡白石町にある杵島岳(きしまだけ)のことです。

さらに付け加えると、日本書紀あるいは古事記にこれと似た歌があります。すなわち、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)が、仁徳天皇の刺客に追われて、雌鳥皇女(めどりのみこ)と共に山を越える時に詠んだ歌として

日本書紀 梯立の 倉梯山を 険(さが)しみと 岩懸きかねて 我が手とらすも

辰巳氏は、隼別皇子の歌は、倉梯山の歌垣で歌われた歌謡から派生した歌であろうと推論しておられます。歌垣で詠われた歌は、強い伝播力をもって全国に広がり、多数の類型歌を生み出していたことがわかります。
このように考えたとき、まず吉野歌垣の歌として385番歌や3293番歌が先にあって、これをもとに、天武天皇が25番歌を詠ったと考えるのが穏当と考えられます。天皇が作った歌がもとになって、中央貴族の間でその歌をまねた歌が歌われるというところくらいまではわかりますが、歌垣に影響を与えて俗謡にまで転化して、その類型歌が全国に伝播したと考えるのは、少し順序がおかしいと思います。
なお、3293番歌との関係から、天武天皇の25番歌に出てくる"耳我の嶺"は、"御金が岳(吉野の"金峯山")"とする説が有力です。この"御金が岳"は、正確には現在の"青根ケ峯"にあたり、写真のV字谷の一番奥の右手に小さく三角形にとがっているところです。


なお、写真を撮った場所にある吉野歴史資料館でお聞きしたところでは、宮滝の吉野離宮は、青根ケ峯を望むことが出来る地を選んで選定された可能性があり、この写真を撮った場所こそ、かつて文武天皇が山を望んで雨乞いの祀りを行った場所ではないかとおっしゃっておられました。現在の吉野水分神社は、かつて青根が峯の山上にあったものが、大同元年(806年)ごろに現在の吉野上千本に遷座されたと伝わります。
ほかに、飛鳥から吉野方面に向う途中に通ったと考えられる"芋峠"、"細峠"、"竜在峠"からみえる山のいずれかとする説などがありますが、これらの関係性から、現在は"青根が峯"を"耳我の嶺"とする説がほぼ固まりつつあります。
(記: 2011年1月1日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/1/1 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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