万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景

雑記帳

三山歌考 2008年8月24日
今月初めに、このコーナーで有名な三山歌について、若干コメントを書きました。その頃は、井上靖さんの小説"額田王"に始まり、北山杜夫さんの"万葉群像"、直木孝次郎さんの"額田王"、藤村由加さんの"額田王の暗号"と額田王の歌を追いかけて、ちょうど上野誠さんの"大和三山の古代"を読み終えた後でした。
初期万葉集の最重要歌とされる中大兄皇子の大和三山歌について、読みすすんでいくと、いろいろ疑問が浮かんでくるばかりで、特に大和三山を、中大兄・大海人・額田の三角関係になぞらえる通説に非常に違和感を覚えるようになり、あのようなコメントを書きました。
中途半端なままにしておくのは良くないような気がしますので、少し詳しく私の考えを書きとめておくことにしました。

01-0013 香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき 天智天皇
01-0014 香具山と 耳成山と 闘ひし時 立ちて見に来し 印南国原 天智天皇
01-0015 海神の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 さやけくありこそ 天智天皇

通説では、13番歌は香具山を中大兄皇子、耳成山を大海人皇子、畝傍山を額田王に見立てた妻争いの歌とされています。しかし、実際この歌が詠まれた状況というのは、百済が新羅と中国唐王朝の連合軍に攻め滅ぼされたので、慌てて大軍団を仕立てて、九州に西進する途上の船中ということです。この後九州を経て本軍は朝鮮半島に侵攻し、しかし結局白村江で新羅と唐の連合軍と戦って大敗北を屈したという歴史上の大事件の真っ只中の歌なのです。そのように考えると、この歌を牧歌的な妻争いの歌と捉えるのは、おかしいと私は思います。
もし、13番歌の本旨を中大兄皇子と大海人皇子の額田王をめぐる妻争いの歌と仮定すると、14番歌の意味がどうしても理解できなくなります。何故印南国原が香具山と耳成山が争っているところを見に来なければならないのか。ところが、もし、私が言うように、香具山を大和(日本)、、耳成山を新羅、畝傍山を百済と考えるとうまく説明できると考えたわけです。以下詳しく説明していきたいと思います。

上野さんの"大和三山の古代"によると、最新の学説では、万葉集の大和三山歌を、中大兄・大海人・額田の三角関係になぞらえる説は、私の考えと同じくほぼ100%否定されているようです。むしろ、純粋に大和三山の妻争い伝承と印南国原との関係の中で、歌の意味を読み解こうとされています。おそらくは、それが現在の学会の主流であることは推測できます。しかし、それでは長歌と反歌2首の意味がばらばらで整合性がないという説明が出来ません。地元の伝承などを考証した上で、大和三山と印南国原との関係を読み解く手順は素晴らしいと思いますが、それだけでは歌の力が弱く、そこに何かの寓意がなければ、歌として成立していないと思います。その意味では、大和三山の説話を中大兄・大海人・額田の三角関係に充てる説は、ある意味では魅力的なのです。この説は、江戸時代の伴信友が「比古婆衣」で述べた説で、それほど古いものではないようですが、ある意味では見事にこの歌の本質を衝いた文学的な想像であったと思います。

歌というものは、純粋文学として成立する場合もあるし、あるいは呪術的な言上げとして成立する場合もあります。もし、この歌が純粋に文学として成立するものであるならば、大和三山の説話を中大兄・大海人・額田の三角関係に充てて考える説は、大変魅力的です。しかし、この歌が成立した状況を考えるならばそれはおかしいし、逆に単純に地元伝承を言祝ぐだけの歌でもないと思います。
私は、天香具山、耳無山、畝傍山の大和三山は、大和(日本)、新羅、百済の三国の争いを暗喩しているのであって、印南野沖の海上を大船団で西進する際に、これから始まるであろう大戦(おおいくさ)を見て欲しいと地霊(印南国原に鎮座する阿菩大神)に言祝いている歌と解釈しています。そのように考えると、13番歌と14番が極めてすっきり理解できます。それから、13番歌、14番歌との意味の整合性がないとされて、難解とされていた15番歌が簡単に理解できます。すなわち、来るであろう大戦争を前に軍団に向って地霊に言祝いだ後に、反歌として、眼前に浮かぶ吉祥雲(豊旗雲)を歌っているのではないでしょうか。歌の構造としては、むしろ意味難解とされる第二反歌が最初に成立した可能性があります。まず、素晴らしい吉祥雲が出たので、船団の士気を鼓舞するとともに、祭祀として地霊に言祝ぐために、長歌と第一反歌が付け加わったのではないでしょうか。
もちろん、上野さんが主張されておられるように、播州地方の妻争い伝説に係る阿菩大神の伝承なども、この歌の意味を支えていると思います。しかし、この歌の本旨は、あくまで大和、新羅の百済をめぐる国争いでなければならないと私は思うのですが如何でしょうか。

ところが、どういうわけか私の意見に近い説は、いろいろ本を探してみましたが皆無のようです。唯一、学会で完全に無視されている藤村由加さんの"額田王の暗号"が、朝鮮語による万葉集の読解を試みていて、その中で、天香具山、耳成山、畝傍山の大和三山を、それぞれ三韓(高句麗、新羅、百済)に充てている説があって、少し近いと思います。私は朝鮮語は当然全くわかりませんし、諸々の学説にも不案内なので、純粋鑑賞の立場で歌を解釈するしかないのですが、結果としてその部分だけ藤村さんの意見に近くなってしまいます。
ただし、藤村さんのように、大和三山を高句麗と新羅と百済の三韓に充てると、その当時の状況と合わなくなります。滅びた百済復興のために新羅と戦争をするために大和の大軍団が西進しつつある状況下にあたって、私は大和三山は、大和・新羅・百済に充てて考えるほうが良いと思うのですが・・・。
あるいは、大和三山歌を一人の男をめぐる二人の女性の正妻争いという意味を強調するならば、畝傍山を中国の唐王朝に見立てて、香具山の大和と耳成山の新羅の正妻争いと理解することもできそうです。むしろ、このほうが正解かもしれませんね。この場合、大和朝廷は唐王朝との連携をいまだ探っていて、その上で新羅との対決を考えていたという歴史上の新解釈が成立することになります。しかし、あり得ないことではないように思いますが・・・。

ところで、私は三山を中大兄・大海人の額田王をめぐる妻争いの歌という説を概ね否定しましたが、若干含みは残しておくべきかなあとも考えています。というのは、中西進さんあたりが主張されておられるようですが、第二反歌が額田王の作歌の可能性がありそうです。この歌は叙景歌として完璧で、この時代にこれほどの歌を詠える人はそれほど多くなかったはずです。文学者に必要な客観的な眼を感じます。私はもう一歩進めて、全編額田王の創作の可能性もあると考えています。その場合、裏の符牒として大和三山を中大兄・大海人の額田王をめぐる妻争いを詠みこんだという可能性がかろうじて否定できないと考えています。

それから、全く人口に膾炙していない説ですが、天香具山=大田皇女(女)、耳成山=菟野皇女(後の持統天皇)、畝傍山=大海人皇子(男)を暗喩していると考えるのは如何でしょうか。この説のほうが、中大兄・大海人・額田の三角関係よりは可能が高い思うのですが、サテ。
この時期大海人皇子は、中大兄皇子の右腕として頭角を表しつつあり、中大兄もこれを認めて、娘の大田皇女と菟野皇女を大海人に嫁がせています。記紀によれば、新羅征伐のために西進する途上、大田皇女は岡山県邑久(おく)の船中で大伯皇女を産んでいます。大和三山歌を中大兄皇子が詠んだすぐ後ということになります。また、その翌年には、菟野皇女が筑紫で草壁皇子を生んでおり、さらにその翌年には大田皇女が大津皇子を生んでいます。中大兄皇子の娘の大田皇女と菟野皇女は、この時期大海人皇子の寵を競っていたのは間違いありません。

このように考えると、この頃の額田王の立場はある意味微妙であったに違いありません。額田王は皇族であり、しかも大海人皇子の初婚の相手だったので、大海人皇子が天皇になった場合、皇后の位置を占める可能性があったはずです。大海人の后は、額田王を除いて、大田皇女と菟野皇女が後宮に入るまですべて皇族外の出身ばかりです。大田皇女と菟野皇女を大海人の後宮に入れたのは、斉明天皇と中大兄皇子であったはずで、私の類推ですが、皇統の直系に異常にこだわった斉明天皇と中大兄皇子(あるいは大田皇女と菟野皇女)の立場から、この時期の額田王は眼の上の瘤のような存在だったのではないでしょうか。額田王は大海人皇子のもとを離れて、後年天智天皇(=中大兄皇子)の後宮に入りますが、額田王の立場からどのように見えたかは別として、中大兄皇子とその娘の大田皇女と菟野皇女が、額田王を大海人の後宮から引き抜くための策謀のひとつだったのではないでしょうか。
なお調べてみると、皇太子の立場にあり実力者であった中大兄皇子には側室が多数いたものの、皇后の倭姫王のみが皇族で、しかも子供がありません。この時期中大兄の同母弟である大海人を引き上げたのは、実母の斉明天皇であることは間違いありませんが、正嫡の子孫(舒明天皇系の皇族どおしの嫡子)を誕生させることは、特に斉明天皇にとっては、大問題だったのではないでしょうか。

ただ、大海人皇子という人は、人間的に魅力があった人のようで、女性関係は円満だったようです。後年菟野皇女は壬申の乱で彼を支えています。また、後年有名な"あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る"の額田王の歌に応えて、大海人が"むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも"の歌を詠っていますが、天智天皇の後宮にありながら、思い定まらぬ額田王の切ない想いに、男気を見せて精一杯応えている初老の男の姿を思うのですが・・。それくらいの男で無いと、天下は獲れないと思うのですけどもね。

なお、後年、額田王は、故意に歴史上から抹殺された可能性があります。記紀にその名前が見えないし、持統天皇に連なる薬師寺の"薬師寺縁起"には、額田王は采女出身に落とされています。これは故意に天武天皇の皇后の地位を占める可能性のあった額田王の出自を貶める策謀だったのではないかと考えられます。私はどうしても、持統天皇(天武天皇皇后の菟野皇女)が好きになれないのですけれども・・・。


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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2008/8/24 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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