万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


日本書紀
武烈天皇即位前記
石の上 布留を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ ものきわに 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌(たまもひ)に 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ
古代歌謡
/影媛
和邇下神社
/北山之辺道




写真: 和邇下神社境内を通る山ノ辺道
Jul. 11 2009
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100

日本書紀武烈天皇即位前紀によると、稚鷦鷯皇子(わかささぎのみこ、後の武烈天皇)は、物部麁鹿火(ものべのあらかび)の娘の影媛を召そうとして、海柘榴市(つばきち)の辻の歌垣で落ちあう約束をしたが、すでに影姫は真鳥大臣の息子の平群鮪(へぐりのしび)と相愛の中であったので鮪は二人の邪魔をするめために歌垣に割って入って、稚鷦鷯皇子と歌で対決した。影姫と鮪がすでに通じていたことを知って怒った稚鷦鷯皇子は、大伴金村を差し向けて、奈良山で鮪を殺してしまった。鮪を追って、鮪が奈良山で殺されるところを一部始終見た影姫は、この歌を詠んだという。

この長歌には、影姫が泣きそぼちながら歩いたという道筋が克明に詠われています。石上-布留-高橋-大宅-春日-小佐保は、所謂"北山之辺道"の要所にあたり、今もその道筋を訪ねることが出来ます。山之辺道は、大神神社から石上神社に至る道(約15km)が有名で、そちらはたくさんのハイカーがお見えになりますが、石上神社から北に奈良山に至る北山之辺道(こちらも15kmほど)のほうはあまり世間に知られていません。道が整備されていないこともありますが、古代史の大舞台に登場する逸話が少ないことも災いしているようです。その中で、この影姫伝説は白眉といえるもので、実際この道を歩いてみると、古代の息吹を感じる場所がいくつか残っています。
この歌に詠われている石上-布留-高橋-大宅-春日-小佐保の地名は、高橋を除いて、現在もその地名が残っており、場所を特定することが出来ます。順番に見ていくと、まず
"石上(いそのかみ)"は、有名な物部氏の総社"石上神宮"があり、万葉集で詠われた布留の神杉が今も鬱蒼と境内を埋めています。影姫は物部氏の娘なので、その邸宅はこのあたりにあったと考えられます。

11-2417 石上 布留の神杉 神さぶる 恋をも我れは さらにするかも 柿本人麻呂 布留

"布留(ふる)"
は布留川流域の広い範囲を指し、石上神宮はその南の河岸段丘上にあるので、石上は布留の一地域の地名と考えられます。最新の発掘調査によると、石上神宮より西の布留川下流域に大規模な古代遺跡が眠っていて、かつての大豪族物部氏の本拠地ではなかったかと考えられています。現在の天理教本部を中心とする半径1キロがその遺跡にあたり、布留遺跡と命名されています。おそらく、歌に詠われている布留は、この布留遺跡の集落を指していると考えられます。(地図-布留/石上)
"大宅(おおたく)"は、現在の奈良市白毫寺町あたりと考えられ、古代豪族和邇氏の一支族であった大宅氏の拠点があったところとされています。現在"宅春日神社(たくかすがじんじゃ)"が新薬師寺から白毫寺に向う道の途中に、古い集落の中に残り、かすかにその名残を見ることが出来ます。(地図-宅春日神社)
これに続く
"春日(かすが)"は現在の春日大社境内、"小佐保(こさほ)"は奈良市法連の佐保川流域にあったと思われ、後の平城京建設によって古い時代の記憶がかき消されていますが、地名にその名残がかすかに残ります。なお春日(地図-春日大社)は、大宅と同じく和邇氏の一支族であった春日氏の拠点と考えられ、小佐保 (地図-佐保)も和邇氏系支族の勢力範囲であったことは間違いないと思われます。
さて、その場所がよく分からない
"高橋"について、現在概ね3つの説に集約されているように思います。
第一の説は、布留川に掛かっていたという「橋」の名前という説。布留川にはかつて脚の高い橋がかかっていて、この長歌に詠われている"高橋"はその橋を指すという説です。万葉集に次の歌があって、掛詞で詠われるほど有名な橋があったようです。

12-2997 石上 布留の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜ぞ更けにける 作者不詳 布留

ただし、石上、布留、高橋と同じ地域の地名が3つもここだけ重なるのは、少し無理があるように思われます。それと、次の大宅までの間が大きく間延びしてしまって、
石上-布留-高橋-大宅-春日-小佐保のつながりが線にならないのが難点です。

第二の説として、奈良市八条町菰川に残る高橋神社あたりとする説があります。このあたりは、やはり和邇氏系の一支族"高橋氏"の拠点があったとされるところで、日本人に多い名前の"高橋"は、この和邇氏系支族の高橋氏から発祥したとされています。和邇氏は、4-5世紀に中央で栄えた後、6-7世紀にはその支族が全国に広がり、各地にその痕跡を見ることが出来ます。例えば、滋賀県に和邇郡という地名がありますが、これは大和の和邇氏が近江地方に広がった名残と考えられます。
実際に高橋神社を訪れてみると、かつての面影はなく、小さな村社にしか過ぎません。区画整理によって旧社地から100メートルほど南に移動しており、旧社地に近いところに"高橋"という名前のコンクリート橋が佐保川に掛かっているの見つけました。ただし、奈良県でも最も交通量が多い国道24号線が近いという地勢のためか、古い面影はこのコンクリート橋のみ。スーパー、家電量販店、病院、住宅などがひしめいて、雑然として取り留めのない景色というほかありません。 (地図-高橋神社)
この高橋は、佐保川流域とはいえかなり下流で、いわば平城京の臍のような位置にあります。影媛は、石上-布留-高橋-大宅-春日-小佐保と北山之辺道を北に直進したとすると、ここだけ大きく西に蛇行したことになってしまうので、歌の流れを考えると、少し無理があるように思います。

第三の説として、天理市和邇町の和邇下神社あたりを充てる説があります。和邇下神社は、古代豪族の和邇氏の宗家が本拠とした和邇町にあって、その下社(なお、上社に"和邇坐赤坂比古神社"がある)にあたります。大きな古墳(和邇下神社古墳)の上に重要文化財の社殿が建っており、境内には一族であった柿本氏の氏寺"柿本寺跡"、それから柿本人麻呂の墓と伝えられる歌塚も残っています。北山之辺道の布留と大宅の中間にあたり、第一説、第二説でネックになった位置的な問題が解決されるところが魅力です。ただし、現在このあたりに高橋という地名はなく、「東大寺要録」という古文書に次の記録があることから、このあたりがこの歌の高橋にあたると推論されているに過ぎません。
すなわち、神護景雲3年(769年)東大寺領の櫟庄に水を引くために
高橋山から落ちる高橋川(現高瀬川)が南流していたのを西に向って真っ直ぐ流れるように水路を造り替えて、横田道も新しく改修したとされています。その際に、新しい川の氾濫がないことを祈願して建立された神社が現在の和邇下神社であって、この森を治道の杜、神社名を治道宮といったとあります。これらの記録から、かつて和邇下神社あたりに"高橋"という地名があったと推論されているのです。(地図-和邇下神社)
これらの3説を比較してみて、現在地名が残っていないという弱点があるものの、天理市和邇町の和邇下神社あたりを充てる説が一番妥当性があるように思われます。
写真の古道は、和邇下神社の杜(治道の杜)に残る北山之辺道。柿本寺跡の脇を北に伸びて、古道のかつての面影を今に伝えています。この長歌の歌碑が建立されており、悲しい影姫の物語を偲ぶのに相応しい場所といえるでしょう。
(記: 2010年8月14日)

トップ頁 プロフィール 万葉の風景 万葉の花 作家の顔 雑歌 相聞歌 挽歌 雑記帳 リンク

万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/8/14 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

inserted by FC2 system