万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


20-4491 大き海の 水底深く 思ひつつ 裳(も)引き平(なら)しし 菅原の里 石川女郎 菅原の里




写真: 菅原の里、喜光寺の黎明
Mar. 22 2009
Manual_Focus Lens105mm, Format67
RVP100

「大海の水底のように深く貴方を思いながら、裳裾を引いて踏みならした菅原の里であることよ」という意味。脚注に「藤原宿奈麻呂が妻石川女郎の、愛薄らぎ離別せられ、悲しび恨みて作れる歌」とある。

藤原宿奈麻呂は、藤原氏四卿のひとり藤原宇合卿の次男で、藤原不比等の孫にあたります。政治家として激しい一生を送った人で、まず天平12年(740年)に起こった藤原広嗣の乱に連座して2年ほど伊豆への流罪を蒙っています。宿奈麻呂は広嗣の弟にあたりました。その後罪を許されて復権したものの、すでに藤原仲麻呂が権力の中枢を占めており、天平宝字7年(763年)に宿奈麻呂はその仲麻呂殺害を企てて再び官位を剥奪されます。この事件では、万葉集の作者大伴家持も謀反の疑いで身柄を拘束され、結局無罪となって危うく難を逃れたものの因幡守に左遷されて、ここで万葉集の採録が終わっています。
この事件の1年後、仲麻呂は乱(恵美押勝の乱)を起こし、このとき宿奈麻呂は追討軍に加わり功をあげるとともに、乱鎮圧の後政界に復帰して参議に上ります。この後、光仁天皇を擁立して名前を"良継"と改め、正二位内臣にまで上り詰めて権勢をほしいままにしました。この頃、大伴家持も中央政界に復帰して活躍しています。宿奈麻呂との縁がその躍進に影響したに違いありません。
さて、この歌は、脚注に「藤原宿奈麻呂が妻石川女郎の、愛薄らぎ離別せられ、悲しび恨みて作れる歌」とあります。天平宝字1年 (757年)12月18日の三形王の邸宅の宴で、大伴家持により伝承された歌であることがわかっています。
この歌を解釈するとき、"裳引き平(なら)しし"とある語句が微妙です。この言葉は、歌垣などでよく使われた一種の慣用句であって、歌垣で地面を踏み平らすように踊る様を形容しています。ただし、この歌の情景とは直接関係がない語句なので、別の意味を重ねた言葉として解釈せざるを得ません。諸説を積読したところ、概ね2つの意訳が行われていることがわかります。すなわち、宿奈麻呂の邸宅が菅原の里にあったので、"裳裾を引いて地団駄を踏んで平らにした菅原の里であることよ"と石川女郎の現在の悔しい心境を詠ったとする説と、"かつて裳裾を引いて行きつ戻りつした菅原の里なのに"と過去の情景を重ねて詠ったとする説です。私は、2つ目の説のほうが自然と思うのですが、サテ?
(記: 2009年4月5日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/4/5 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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