万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


13-3330
隠口の 泊瀬の川の 上つ瀬に 鵜を八つ潜け 下つ瀬に 鵜を八つ潜け 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹に 鮎を取らむと くはし妹に 鮎を取らむと 投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 衣こそば それ破れぬれば 継ぎつつも またも合ふといへ 玉こそば 緒の絶えぬれば くくりつつ またも合ふといへ またも逢はぬものは 妻にしありけり 作者不詳 初瀬川
13-3331
隠口の 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走出の よろしき山の 出立の くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも 作者不詳 忍坂山
13-3332 高山と 海こそば 山ながら かくも現(うつく)しく 海ながら しかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人 作者不詳 初瀬川





写真: 初瀬川から忍坂山を望む
March 26, 2011
Manual_Focus, Micro Lens105mm, Format67
RVP100F

巻13の"挽歌"に掲載されている作者不詳歌。長歌の返歌のひとつ。
"初瀬山、忍坂山は、我が家から走り出でたところにある美しい山である。そんな立派な山があなたがいないので、荒れてしまうのは惜しいことだ"

作者不詳の挽歌と在ります。三首を併せて理解すべき歌であると思いますので、まず三首の対訳を続けてお読みください。

13-3330
隠口の 泊瀬の川の 上つ瀬に 鵜を八つ潜け 下つ瀬に 鵜を八つ潜け 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹に 鮎を取らむと くはし妹に 鮎を取らむと 投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 衣こそば それ破れぬれば 継ぎつつも またも合ふといへ 玉こそば 緒の絶えぬれば くくりつつ またも合ふといへ またも逢はぬものは 妻にしありけり
(訳)
初瀬川の上流に鵜たくさん潜(かず)けて、下流にもたくさん潜けて、年魚を貴女に食べさせてあげたものだ。美しい貴女のために年魚を獲ろうと箭(さ)を投げたものだが、今は亡くなって遠くになってしまって、そのことを想っただけで不安で、嘆く気持ちで心が静かでない。衣装が破けたのならば繕えばまた合わせることが出来るし、玉の紐が切れたのならば、また紐を通せばまた合わせることが出来るのだが、再び合わせることが出来ないのは、亡くなってしまった妻なのだ。
 
13-3331
隠口の 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走出の よろしき山の 出立の くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも
(訳)

初瀬山、忍坂山は、我が家から走り出でたところにある美しい山である。そんな立派な山があなたがいないので、荒れてしまうのは惜しいことだ。
 
13-3332 高山と 海こそば 山ながら かくも現(うつし)く 海ながら しかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人
(訳)
高山と海であれば、その性格として、厳然として常にそこに存在するが、人は花のように散りやすいものだ。この世の人はすべてそういうものだ。

3331番歌については、日本書紀雄略紀によく似た歌が掲載されており、おそらくはこの雄略天皇の歌(あるいは俗謡?)をもとに、詠われた歌ではないかと思います。3331番歌は、前後関係からすこし違和感がありますが、一般に広く膾炙された歌謡をもとに若干の改変を加えて新しい歌を即興で歌うということは歌垣ではよくおこなわれる手法なので、それと同じようなものなのだと思います。

(日本書紀雄略紀)
6年春二月、任子の朔にして乙卯の日、天皇泊瀬の小野に遊びたまひ、山野の体勢(かたち)を観(み)そなはして、いたく感(おも)いを興して、歌よみしたまひしく
(こもりく)の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走り出の よろしき山の 隠国の 泊瀬の山は あやにうら(ぐは)し あやにうら麗し
泊瀬の山は 家から出てすぐの所に見える美しい山である。家から走り出てすぐの所に見える立派な山である。泊瀬の山は なんと美しい なんとも言えず美しい
ここに小野(おの)となずけて、道の小野といえり。

3331番歌には「青旗の忍坂の山」が新たに付け加えられていますが、写真の円錐形に見える中央の山塊が忍坂山です。
撮影地は、大和川上流の初瀬川畔、かつての海柘榴市(つばきち)があったとされるところです。現在整備されて、河川敷が「海柘榴市跡歴史公園」になっていて、中央に馬井手橋(撮影場所)がかかっています。「海柘榴市跡歴史公園」には、大きな「仏教伝来地」の石碑が建っており、欽明天皇13年(538年)に、百済の聖明王が金銅仏像を天皇に送ったときに上陸した場所と推定されています。欽明天皇の敷城島金刺宮跡とされる場所が、この南岸そぐそこのところにあるためです。かつて、難波津に到着した外交使節は、大和川水系を水運で上りこの場所で上陸して、その後陸路で王宮に向ったとされ、いわば古代王宮の入り口のような場所だったのです。
そのような場所を詠った歌なので、この挽歌の作者は、王族の一人であったかもしれません。鵜を使って年魚を採って妻に食わせたとあるので、作者は猟師であるかのような錯覚を覚えるものの、よく考えると本人が鮎漁をしたとは書いていないので、この歌が漁師の歌でなければならない理由はありません。むしろ、3331番歌の下句に、「あたらしき山の 荒れまく惜しも」--"貴女がいないと美しい山が荒れてしまうのが惜しい"と詠っているのが、意味深です。"妻がいなくなると山が荒れてしまう"ということは、その山は妻が管理あるいは所有していたということになります。そして、その山は、この歌の意味からすると、"泊瀬山"と"忍坂山"ということになります。実は、泊瀬と忍坂という場所は、雄略天皇の系譜に連なる王族が割拠した場所で、そのことから類推して、この亡くなってしまった妻というのも、大王家の皇女のひとりだったのではないでしょうか。
(記: 2011年7月24日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/7/24 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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