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石上 布留の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜ぞ更けにける |
作者不詳 |
布留 |
写真: 石上神宮裏、布留川の河岸段丘
Mar. 28 2010
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100F |
巻12柿本人麻呂集の寄物陳思から。"石上(いそのかみ)の布留(ふる)の高橋の橋桁が高いように心も高々に、今か今かとあなたは待っているであろうに、夜は更けてしまったことだ。" |
この歌の面白いところは、"石上 布留の高橋 高々に"の上句です。"高々に"とは、心が高ぶるさまをいい、この句では布留にあった高橋の橋桁が高かったことと掛詞になっています。また、"石上(いそのかみ)"は布留にかかる掛詞なので、二重に掛詞が掛かる構造になっています。
この歌からわかることは、布留に"高橋"という名前の橋桁の高い橋があったことです。布留は、現在の天理市布留辺りをいい、布留川を挟んだ両岸を指し、官幣大社の石上神宮を含みます。かつて、物部氏の一大拠点のあったところで、発掘調査では、石上神社の下手にある天理教本部神殿辺りを中心とする大集落があったことがわかっていて、布留遺跡と名づけられ、考古学上大変有名な遺跡とされています。
布留の地は、南北に「山之辺の道」と「上ツ道」が通り、東に布留川沿いに都祁を経て東国に通じており、軍事上の要所とされていました。特に「山之辺の道」と「上ツ道」の南北路は、布留川を境に、南に三輪王朝の中心部に入っていくことになったので、ここがその関所のような役割を担ったことは想像に難くありません。
布留川は、写真で見てもわかるように、川幅は広くありませんが谷が深く、ここに水平に橋が架かるとすると、橋桁の高い橋が掛かっていたことが容易に想像できます。もしかしたら、それは最新式の大陸伝来の土木技術であったかもしれません。
ただ残念なことに、石上神宮より下流の布留川は、天理教教団の大建築群の中に紛れて大きな改変を受けており、かつての面影をしのぶことは容易ではありません。 |
(記: 2010年5月15日) |
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