万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


11-2362
山背の 久背の若子(わくご)が 欲しと言ふ我れ あふさわに 我れを欲しと言ふ 山背の久世 柿本人麻呂歌集 久世




写真: 久世神社の杜に残る久世廃寺跡
Nov. 12, 2011
Manual focus, Lens105mm, Format67
RVP100F

万葉集第11巻は、"古今の相聞往来の歌の類の上"と題されて、古い歌が集められている。その冒頭に"旋頭歌十七首"があり、そのうちの一首。"柿本人麻呂集に出ず"という脚注がある。
"山城の久世の若者が欲しいという私。会うとすぐに私が欲しいという山城の久世の若者よ"

旋頭歌は、古い形式の歌謡で、577-577の構成になっており、その起源には諸説あるものの、二人あるいは複数の人によって輪唱のように交互に詠われた俗謡のようなものであったと推測されます。この歌は、上句と下句に"山城の久世"という同じ言葉が繰り返されて詠われていて、強い対唱性が感じられます。歌垣などで、交互唱として詠われた歌であろうと思われます。

11-2362
山背の 久背の若子(わくご)が 欲しと言ふ我れ
あふさわに 我れを欲しと言ふ 山背の久世
柿本人麻呂集に出ず
山城の久世の若殿様が欲しいという私。
会うとすぐに私が欲しいという山城の久世の若殿様よ

"山城の久世の若子(わくご)"という言葉が意味ありげですが、通常若子は「若者」と訳されます。歌垣で詠われる歌は、今日の歌謡曲のように同時代の者であれば誰でもが口ずさめるような内容のもので、例え愛を詠う内容であったとしても、特定の相手を示していないと考えるべきかもしれません。集団唱であったならば、この"若子"は久世で行われた歌垣に参加した若者達全体を示した言葉と解釈することも出来ます。
ところが、この久世の若子を、特定の相手を示した言葉とみなして、"久世の若殿様"と訳する説があります。すなわち、久世の若子とは、久世地方を治めた豪族の御曹司のことを指して、この2362番歌は、御曹司に見初められた驚きと喜びを詠っていると解釈するのです。確かに文学的にはそちらのほうがおもしろいように思います。歌垣における女性の最高の栄誉というものは、高貴の人物に見初められて、その愛が成就することであろうし、そのことは今日の若者の恋愛事情とそれほど変わっているわけではありません。むしろそのように解釈するほうが、女性の本音と現実が表れているように思います。
逆に、一般の男性から見れば、そのことは大変口惜しいことで、同じ久世の歌垣で詠われたであろう旋頭歌に、次のようなものが在ります。

07-1286 山背の 久背の社の 草な手折りそ 
我が時と 立ち栄ゆとも 草な手折りそ
柿本人麻呂集に出ず
山城の久世の社の草を手折らないでおくれ。
今こそ我が世の盛りと思っていても、その草を手折らないでおくれ。

久世の社の草とは、作者が想いを寄せている女性のことを暗示しており、この歌は久世の歌垣に参加している男性が、我が世の盛りと権勢をほしいままにしている権力者の若者にその女性が奪われてしまうことを心配している歌と解釈することが出来ます。庶民男性の悲哀が現れた歌で、誠に我が身に沁みるものがあります。
歌垣では、対歌といって、男女が順番に歌を詠うということが行われた(相聞歌の起源)ようですが、2362番歌と1286番歌が順番に男女が詠った歌であると仮定すると、正に同床異夢の人情喜劇ということになりそうです。、男性と女性では、ものの感じ方が違うことの典型を示していて、どちらも愛の真実を詠った歌であることに間違いはないので、人間の業とはまさしくこのようなことをいうのでしょうか。

ところで、題掲の2362番歌も、後掲の1286番歌も柿本人麻呂集からの出典であることは、"柿本人麻呂集から出ず"という脚注があることから明白ですが、この"久世の若子"を柿本人麻呂本人のことではないかとする説があるので、これを紹介したいと思います。私は学者ではないのですべての論考を読み解くことは出来ないので、古い学説からの転用に私がたまたま触れただけという可能性もないとは言い切れませんが、はやり我々素人にとっておもしろいものはオモシロイ!
柿本人麻呂は、万葉集に多くの歌を残していますが、その中には彼の壮年時代に宮廷歌人として作った歌群とは別に、青年時代に彼が習作とした作った歌、あるいは実際歌垣に参加して拾遺した歌などが多く含まれているとされています。ところが、これらの歌に詠われている地名には偏りがあり、おそらくは人麻呂の若かりし頃の行動範囲を間接的に示していると思われます。そしてその中に、この久世を含む宇治川-巨椋池あたりの地名が多く含まれていることを指摘することが出来ます。詳細については、巻3の264番歌巻9の1707番歌の注釈をお読みください。
要するに、柿本人麻呂は、大和に出仕する以前にこのあたりに住んでいたかもしれず、しかも人麻呂は、中央の大豪族であった和邇氏の支流"柿本氏"の御曹司であった可能性が高いのです。人麻呂本人は記紀に伝承がない人物ですが、柿本猿(さる)という人物が708年に死亡したとする記載が記紀にあり、中央官僚として殿中に上がり、活動していたことが確実です。人麻呂は、その係累(子供あるいは兄弟)であった可能性が高いのです。あるいは本人自身であった可能性もあるとされています。
さらに人麻呂の歌には地方赴任の歌があることから、中央政界で殿上人(五位以上)を務めるほどではないけれども、中央から派遣されて地方官吏を務めるほどの位があったことがわかります。律令が整う壬申の乱以前の旧秩序にあっては、人麻呂の立場は地方豪族の御曹司にピッタリ当てはまるということになります。
柿本猿は、壬申の乱の功績で中央政界に進出した人物と考えるのが妥当と思われ、かつての大豪族"和邇氏"の後継者でもあったわけですから、今をときめく"久世の若子"というのは、その頃の人麻呂本人のことであったかもしれません。後に宮廷歌人として壮大な叙事詩を詠った人麻呂の青春時代が、もしこのように古い神話時代の最後の煌きに妖しく照らされていたと仮定すると、なんとなく合点が行くような気もするのです。
このことを指摘されておられるのは、民間の研究家大西俊輝氏で、「柿本人麻呂とその子躬都良(みつら)」に詳しく書かれています。柿本人麻呂の書伝は沢山ありますが、もともと謎の部分が多くて、決定的なものがありません。正統的な学者の方には、この場合間違ったことがいえないないという制約が邪魔して、大胆な解釈を妨げている可能性があります。むしろ、民間の研究家の論説に見るべきものがあるようにも思います。ちなみに、大西俊輝氏は「人肉食の精神史」なんて摩訶不思議な本も出している脳神経外科だそうで、世の中には多彩な人もあるものですね。

付記)
写真の久世廃止寺跡は、現在の久世神社の杜にあり、法起寺伽藍の白鳳時代の遺跡です。柿本人麻呂の年記でいうと晩年にあたる文武天皇時代の遺跡なので、人麻呂がこの歌を採録した青年時代より20〜30年年ほど後の遺跡ということになります。壬申の乱の後、律令制度の普及が画期的に進んで、地方豪族の時代から律令官僚による統治の時代に変わっていきます。人麻呂が"久世の若子"と呼ばれて時めいていた時代に、この神社の杜で歌垣が営まれていたのかもしれません。とすると、むしろこの久世廃寺が建てられたときには、柿本氏の権勢はこの地になく、中央から派遣された官僚がこのあたり(久世官衙遺跡)を闊歩していたはずです。
(記: 2011年12月11日)

トップ頁 プロフィール 万葉の風景 万葉の花 作家の顔 雑歌 相聞歌 挽歌 雑記帳 リンク

万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2012/12/11 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

inserted by FC2 system