万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


09-1809 葦屋の 菟原娘子の 八年子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士 菟原壮士の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも 高橋虫麻呂歌集 処女塚
09-1810 芦屋の 菟原娘子の 奥城を 行き来と見れば 哭のみし泣かゆ 高橋虫麻呂歌集 処女塚
09-1811 墓の上の 木の枝靡けり 聞きしごと 茅渟壮士にし 寄りにけらしも 高橋虫麻呂歌集 求女塚




写真: 処女塚(おとめづか)
September 25, 2010
Manual_Focus Lens28mm, Format35mm
RDP100V

"菟原処女(うないおとめ)の墓を見る歌一首 (1809番歌)"に対する反歌二首のうちの一首。高橋連虫麻呂歌集からの出典。"芦屋の菟原処女の墓を行き来につけて見ると、泣けてくることだ。"

万葉集に取り上げられている菟原処女の物語は、高橋連虫麻呂の歌だけではありません。巻3の田邊福麻呂の歌(1801〜1803番歌)、巻19の大友家持の歌(4211、4212番歌)があります。歌の内容は、高橋連虫麻呂の歌とそれほど大きな相違があるわけではありませんが、少しずつ異伝を含んでいるので、その解説を。
 
芦屋処女(あしやのむすめ)の墓を過ぐる時に作る歌
03-1801 古への ますら壮士の 相競ひ 妻問ひしけむ 葦屋の 菟原娘子の 奥城(おくつき)を 我が立ち見れば 長き世の 語りにしつつ 後人の 偲ひにせむと 玉桙の 道の辺近く 岩構へ 造れる塚を 天雲の そくへの極み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ ある人は 哭にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎくる 娘子らが 奥城処 我れさへに 見れば悲しも 古へ思へば 田邊福麻呂
03-1802 古への 信太壮士(しのだおとこ)の 妻問ひし 菟原娘子の 奥城ぞこれ 田邊福麻呂
03-1803 語り継ぐ からにもここだ 恋しきを 直目(ただめ)に見けむ 古へ壮士(いにしえおとこ) 田邊福麻呂
 
田邊福麻呂の歌には、茅渟壮士(ちぬおとこ)とあるべきところが、信太壮士(しのだおとこ)となっています。
そもそも、茅渟壮士の茅渟(ちぬ)とは、大阪湾(浪速の海)のことをいい、現在でも大阪湾のことをチヌの海と呼びます。チヌとは鯛の一種で、もともと大阪湾はチヌがたくさん獲れたところなので、そのように言うと私は子供の頃教わったように思います。しかし冷静に考えると、茅渟(ちぬ)の海に多かった魚をチヌと呼ぶようになったというのが本当かもしれません。
話を茅渟壮士に戻すと、茅渟壮士の名前は、彼が海士であったことを暗に物語っています。茅渟壮士を血沼壮士と表記するものもあって、彼が海を支配する武人であった可能性があります。さらに、田邊福麻呂の歌では志太壮士(しのだおとこ)と表記されていますが、大阪府和泉市信太(しのだ)から来ていると考えられます。信太は、当時住吉系海人族の一大拠点であったところと考えられるので、そのことから類推すると、この茅渟壮士は大阪湾を支配した住吉系海人族のひとりであったに違い在りません。なお、茅渟壮士の墓と伝わる東求女塚の場所は、現在の東灘区住吉にあたり、かつて灘地域における住吉族の一拠点であったようです。彼らは広く茅渟の海(大阪湾)を自由に航海して、一箇所に留まることがなかったのかもしれません。
それに対して、もうひとりの菟原壮士は、その名前から考えて、菟原処女と同じ菟原の同族であったと思われます。虫麻呂の歌では、菟原処女があの世で待ちましょうと言って死んだ後、夢を見て後を追ったのは、この菟原壮士で、残った茅渟壮士は、地団太を踏んで自らも負けまいと思ってその後を追ったことになっています。果たして、菟原処女は、どちらの男をあの世で待つつもりだったのでしょうか。どちらかが、とんでもない勘違い男ということになってしまいます。
この4世紀という時代は、景行天皇の征西や応神天皇の渡韓などがあって、海人族が大活躍した時代にあたるので、国人であった菟原一族に対して、住吉系海人族は垢抜けた国際派のようなイメージだったかもしれません。若い女性にとって、田舎のまじめ男よりも、都会の優男(やさおとこ)のほうが格好よく見えるのが世の習いというもので、1811番歌では、菟原処女の古墳の上に茂っている木は東求女塚(茅渟壮士の墓)のほうに靡いていると詠っています。菟原処女と茅渟壮士は、日本版のロメオとジュリエットだったのでしょうか。

追いて処女(おとめ)の墓の歌に応える一首
19-4211 古に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 智渟壮士(ちぬおとこ) 菟原壮士(うないおとこ)の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 争ひに 妻問ひしける 処女らが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて 秋の葉の にほひに照れる 惜しき 身の盛りすら 大夫の 言いたはしみ 父母に 申し別れて 家離り 海辺に出で立ち 朝夕に 満ち来る潮の 八重波に 靡く玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥城を ここと定めて 後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと 黄楊小櫛 しか刺しけらし 生ひて靡けり 大伴家持
19-4212 娘子らが 後の標と 黄楊小櫛 生ひ変り生ひて 靡きけらしも 大伴家持

大伴家持の長歌について、題詞の「追って応える」とは、原文に「追同(追って同ずる)」となっています。これは、別の歌に和して詠うという意味があります。この場合、別の歌とは、さきの高橋連虫麻呂の180918101811番歌のことを指していると思われます。高橋連虫麻呂は、生没年不祥の人物とされていますが、天平4年(732年)に、西海道節度師藤原宇合への壮行歌(巻6-0971、0972)があり、また、検税使大伴卿(大伴旅人あるいは大伴安麻呂か?)(の筑波山に登りし時の歌(巻-1753〜1774)があることから、大伴家持(大伴旅人の長子)の1世代前の人ということになります。
大伴家持の歌は、高橋連虫麻呂の歌をもとに作歌されており、しかも実際に現地に行かずに作られた可能性があります。同歌の後記として、「右は、(天平勝寶2年(750年))5月6日に、興に依りて大伴宿禰家持作れり」とあります。
しかし、家持の歌には、菟原処女が海に身を投げて死んだ話、長く話が伝わるようにと黄楊の小さい櫛を菟原処女の墓に挿したところそれが茂って靡くほどになったという話が新たに付け加わっているので、奈良時代中期頃には、菟原処女の物語は広く広まっていて、そうした異伝も都に直接伝わっていたのかも知れません。
 
地図: 西求女塚 地図: 処女塚 地図: 東求女塚
 
(記: 2011年10月16日)


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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/10/16 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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