万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


09-1747 白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小椋の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝は 散り過ぎにけり 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱ひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで 高橋虫麻呂 龍田越え
09-1748 我が行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし 高橋虫麻呂 龍田山




写真: 龍田大社の桜
Apr. 3, 2010
Manual_Focus, Lens105mm, Format67
RVP100F

題詞に、"春三月に、諸(もろもろ)の卿大夫等(まへつきみたち)の難波(なには)に下りし時の歌二首"とある。
"私たちの旅は、7日を越えることはないでしょう。ですから、龍田大社の竜田彦の神よ、夢にもこの桜の花を散らさないでください。"

竜田山というと、在原業平の"ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは"の歌が有名で、古来紅葉の名所とされています。ところが、さらに古い万葉集では桜を詠む歌のほうが多くて、奈良時代の竜田山は、桜の名所であったことがわかります。万葉集に竜田を詠んだ歌は15首ありますが、そのうち桜を詠んだ歌が5首なのに対して、紅葉を詠んだ歌は全くありません。
龍田大社は、崇神天皇の御世の創建と伝えられるものの、正史に現れるのは、天武天皇4年(675年)に年に2度勅使が参詣されるようになってからです。天武天皇の御世に"竜田の関"がこの神社の麓に設けられ、その地理的な重要性が増したので、産土神である龍田大社が大々的に整備されたのだと思われます。
なお、龍田大社の祭神は、天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと)とされていますが、おそらくはその別名とされる志那都比古神(しなつひこのかみ)・志那都比売神(しなつひめのかみ)が元々の神名であって、後世にすり替った可能性があります。古い国津神が後世になって天津神系の神様にすり替わってしまう現象は、神社ではよく見られることです。したがって、この歌の龍田彦は、龍田山の国津神(産土神)である"志那都比古神"のことを言うと考えて間違いないと思います。
(記: 2010年4月18日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/4/18 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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