万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


09-1747 白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小椋(おぐら)の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝は 散り過ぎにけり 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱ひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで 高橋虫麻呂 龍田越え
09-1748 我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし 高橋虫麻呂 龍田山




写真: 奈良街道亀之瀬越え、峠八幡神社の桜
Apr. 3, 2010
Manual_Focus, Lens50mm, Format67
RVP100F

題詞に、"春三月に、諸(もろもろ)の卿大夫等(まへつきみたち)の難波(なには)に下りし時の歌二首"とある。
"竜田山の急流の上にある小椋山に咲いている桜の花は、山が高いので、風がしきりに吹くので、雨も絶えず降るので、上の方の枝の花はもう散り過ぎてしまったろう。下の方の枝に残っていた花は、暫しの間は散り急いではくれるな。旅をするあなたが帰ってくるまでは。"

竜田越えは、奈良盆地から大阪平野へ出る要衝の地であったことから、古い時代(天武天皇の御世)には関所(龍田の関)が設けられていました。ところが、現在その正確な道筋はわからなくなっています。その理由のひとつは、奈良盆地と大阪平野を分ける"亀之瀬越え"の地形が大きく変わってしまっていること。何故なら、彼の地は現在でも地すべりが発生するほど地盤が脆弱で、実際今も「地すべり防止工事」が公共事業として大々的に行われています。私の知るところでは、JR関西本線が地すべりのために度々通行が不能になり、結局線路が別の場所に移転されたはずです。おそらく古代においても、地すべりが度々起こって、大和盆地の災厄の種になっていたに違いありません。大和川は、この亀之瀬で大和盆地の水流を一手に集めて落流するので、地滑りが起こると自然ダムのような有様になったことは想像に難くありません。法隆寺は大和川本流から離れて随分高い場所にありますが、最新の地質調査によると、その門前まで大和川の洪水に侵された痕跡が残っているそうです。
この歌に詠われる"龍田の山の瀧"は、この亀之瀬の流れを指していると思われます。現在は、瀧というほどではなく岩場の多い急流にしか過ぎませんが、かつてはそれなりの落差があって瀧のような姿をしていたのではないでしょうか。歴史上から消え去っていますが、水害が起こる度にこの落差を改良する工事が行われてきたのではないかと私は考えています。実際、人力の及ぶ範囲の小さかった縄文時代には、大和盆地は大きな湖であったとされています。父からの聞き伝えによりますと、太平洋戦争中にも洪水対策として亀之瀬の急流を火薬で爆破するということが度々行われていたそうです。
日本書紀によると、隋国の使節であった裴世清(はいせいせい)が、大和川上流の海石榴市まで舟で上って、そこから上陸して飛鳥に向ったとされています。飛鳥時代には、大阪湾から飛鳥に至る交通手段として舟を活用した水運がすでに整理されていたことになります。ところが、民俗学的な知見によると、1000年後の江戸時代であっても、大和川を遡行した物資は亀之瀬の急流に阻まれて、ここで一旦荷駄に積み替えられて上手まで運ばれて、そこで再び舟に積み替えられて大和盆地の各地に運ばれていたということです。おそらく万葉集の時代にあっても亀之瀬は舟の通行が不可能だったと思われます。
さて、この写真は、その大和川亀之瀬の段丘上にある"峠八幡神社"の桜を撮ったもの。王寺のJR三郷駅近くにある古代の関所跡の説がある"関地蔵"から古い道をたどって緩やかに山を登っていくと、この神社(すでに大阪府柏原市)に至ります。(峠神社が関所跡であるとする説もあります)。


石上乙麿卿(いそのかみのおとまろのまへつきみ)が土佐国に配流されたときに、次のような歌(万葉集巻6の1022番歌)を詠みましたが、その歌の中の"手向けする畏(かしこ)の坂"とは、この峠神社のあたりではないかと考えられています。

06-1022 父君に 我れは愛子ぞ 母刀自に  我れは愛子ぞ 参ゐ上る 八十氏人の 手向けする 畏の坂に 幣奉り 我れはぞ追へる 遠き土佐道を 石上乙麻呂

竜田越えの道は、この峠神社で川伝いにいく亀之瀬越えと、一旦山に登って谷伝いに下る雁多尾畑越え(かりんどばたごえ)の二手に分かれます。古代の竜田越えの本街道は、果たしてどちらであったのか明快な答えはありません。ただし、難波から飛鳥まで物資輸送が主に大和川の水運で行われていたことを想定すると、唯一舟での曳航も出来ない亀之瀬を越えるため、荷駄の道として川伝いの亀之瀬越えがその時代既に盛んであったことは想像に難くありません。残念ながら、亀之瀬越えの旧道は、この先地すべり工事区域に入って途切れてしまっています。
また、山に一旦登って谷沿いに下る雁多尾畑越えの街道もこの時代に既に盛んではなかったかと考えられています。例えば、この歌に詠まれている"小椋の嶺"は、峠神社から山側へ登った道の頂上にあたる"留所(とめしょ)の山"ではないかと推測されています。(現在、留所の山には電波塔が建っていて、山越え道の目印になっています) その電波塔を過ぎると道はすぐに雁多尾畑集落に入って、そこからは舗装された府道183号線(本堂高井田線)を谷沿いに一直線に河内平野に下ることが出来ます。雁多尾畑集落からは、大阪平野が眼下に見渡せて絶景です。
なお、この雁多戸畑の集落は、大変高度が高いところにあって、比較的人口密度の濃い村がこんなところにあるのが不思議な感じがしますが、村に金山姫神社、金山彦神社の二つの古社があることから、このあたりが古代の金山(鉄の鉱山)であったことがわかっています。公的な行幸などを行う場合の竜田越えの道は、むしろこちらを使用したと考える説が多いようです。

この日は峠神社境内の桜が満開で、ご覧のような見事な風景。果たして、高橋虫麻呂もこんな桜を見たのでしょうか。
(記: 2010年4月18日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/4/18 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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