09-1707 |
山背の 久世の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり |
柿本人麻呂歌集 |
鷺坂 |
写真: 久世神社前の鷺坂
Nov. 12. 2011
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100F |
柿本人麻呂集より。題詞に"鷺坂にして作る歌一首"とある。
"山城の久世の鷺坂は、神話の時代から、春は芽が吹き出て、秋は散ってしまうことだ" |
山城の久世は、京都府城陽市久世あたりをいい、現在の久世神社東側の坂道(写真)がその"鷺坂"と伝承されています。久世神社に立てられている案内板などには、「久世神社は旧久世村の産土神で、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。かつては華霊天神若王社と称したが、明治初年久世神社に改められた。社伝によると、祭神の日本武尊は死後西に白鷺となって飛び去り、その鷺が留まった地を鷺坂山と言い、この地にまつったのが始まりである。万葉集で詠われている白鳥の鷺坂山はこの地であたる。」と説明されていました。
記紀の日本武尊の物語では、「日本武尊は東国征伐からの帰途、伊吹の神の祟りに会って病となり、三重県亀山市の能褒野(のぼの)の地で大和の地を偲びながら亡くなってしまったのだが、日本武尊を能褒野で葬ろうとすると、日本武尊は白鳥に化身して大和を指して飛んでゆき、やがて大和の琴弾原(奈良県御所市)に降りたものの、再び飛翔して今度は河内古市(大阪府羽曳野市)に留まって、ついには天に上って行ってしまった」とされていて、鷺坂の名前は出てきません。
ところが、この歌を含めて、鷺坂に関する万葉歌を知ると、あながち鷺坂の伝承が事実無根のものであるとは、言い切れないように思います。鷺坂に関連する万葉歌は、次の三首があります。
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鷺坂にして作る歌一首 |
09-1687 |
白鳥の、鷺坂山の、松蔭に、宿りて行かな、夜も更けゆくを |
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鷺坂にして作る歌一首 |
09-1694 |
細領巾(たくひれ)の 鷺坂山の 白つつじ 我れににほはに 妹に示さむ |
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鷺坂にして作る歌一首 |
09-1707 |
山背の 久世の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり |
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右のものは、柿本人麻呂集に出ず |
まず、1687番歌からわかることは、鷺坂山の枕詞が白鳥であることから、人麻呂の時代には既に日本武尊伝説との関連性で鷺坂山が意識されていた可能性があることです。ただしこの場合、日本武尊の伝承がまずあってそこから鷺坂山の地名が発祥したとする説とはとは別に、まず地名が鷺坂山であったことから、鷺との関連性で枕詞として"白鳥"が派生したという可能性も否定できないと思います。
次の1694番歌では、鷺坂山の枕詞に"細領巾(たくひれ)の"という詞が使われています。原文では「細比礼乃」となっています。タクとは"白袴"とも"細袴"とも書いて、白い布を意味して、後の"白妙(しろたえ)"に通じる言葉です。また、ヒレとは首に掛ける長い布のことです。したがって、タクヒレとは、白く美しい首に掛ける長い布と解釈できます。
この歌は、白のイメージで貫かれていて、"細領巾""鷺坂山"は、"白躑躅"にかかる掛詞になっています。すなわち、"鷺坂山"は、"白鳥"と同語であることを前提に歌が構成されており、やはり、日本武尊伝説がこの地に口承されていて、一般にも広く知られていることを前提として詠われた歌であると考えられます。
1707番歌については、"神代より"という言葉が重要です。"神話の時代から、久世の鷺坂は、春は芽吹いて、秋は散るのだ"と詠っているのですが、神話の時代から続く久世という土地の"永続性"を詠み見込んだ地霊に言祝ぐ歌と解釈すべきと思います。この歌に前提となっているのは、やはり強い伝承を持つ神話の存在であろうし、その意味ではやはり日本武尊伝説の存在がおぼろげながら見えてくるのです。
現地に行って知ったことですが、久世神社境内の杜には、白鳳時代の久世廃寺跡があり、写真の坂道(鷺坂)を300mほど上ったところには、奈良時代の久世官衛遺跡があって、古代には相当に栄えたところであったということです。この久世神社の後方の丘陵には芝が原古墳群があり、北方500mのところには、全長272m、墳丘180mの南山城最大の前方後円墳"車塚古墳"(古墳時代中期、国指定史跡)があります。特にこれらの古墳時代中期の古墳は、日本書紀に記載のある栗隈氏関係の遺跡と推定されており、古より相当に歴史の色の濃いところであったということが言えそうです。
思うに、古墳時代初期に、久世の地を最初に開拓した氏族は、日本武尊の軍団の系譜を引く者であったので、その伝承が人麻呂の歌に影響を与えた可能性があるのです。
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(記: 2011年12月11日) |
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