万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


09-1668 白崎は 幸くあり待て 大船に 真梶しじ貫き またかへり見む 作者不詳 白崎




写真: 白崎海洋公園の立巌(たてご)を望む
Jul. 18, 2010
Manual_Focus Lens105mm, Format67
RVP100F

作者不詳。大宝元年10月に持統上皇と文武天皇が紀伊国に行幸されたときの歌(十三首)のひとつ。
"白崎は、我々の航海が無事であることを祈って待っていて欲しい。大きな船に真楫(まかじ)を付けて行くのだから大丈夫だ。帰ってきたら、またこの白崎を見よう。

私は、万葉歌の訳あるいは英語の訳をするとき、できるだけその歌の本意を尊重すべきで、時として正確性を踏み外して意訳したほうがよい場合があると思っています。正確に訳そうとする余り、意味が通じない珍訳が世間一般に多いからです。
例えば、この歌の訳について、岩波書店の「日本古典文学体系-万葉集2」は、"白崎は無事でそのまま待っていよ。大船に真楫を数多く付けて、また帰ってきてみるから"と訳しています。果たして、皆さんこれで意味がわかります?
万葉集の訳の誤謬のいくつかは、文節ごとに主語が激しく入れ替わることがあるということを理解していないことから起こっています。例えば、岩波書店版は、"白崎は幸くあり待て"を"白崎が無事にいて待っていて欲しい"と訳していのますが、よく考えると白崎はご覧のように自然の一景観に過ぎないので、"白崎が無事にいて欲しい"とするのは、擬人化を伴うものであったとしても意味が弱いと私は思います。この場合、無事であることの主語は作者自身であって、"白崎は、我々の航海が無事であって、また帰ってくることを待っていて欲しい"と作者が念じていると捉えたほうが自然です。また、"大船に 真梶しじ貫き"の一節は、"大船に大きな楫を取り付けていくのだから、大丈夫また帰ってくるのだ"と自分自身に言い聞かせる気持ちを表現したものであって、岩波書店版の訳では簡潔に過ぎると私は思います。ですから、"大きな船に真楫(まかじ)を付けて行くのだから大丈夫だ。帰ってきたら、またこの白崎を見よう。"というように意訳を行いました。もし、大学の試験で私のような訳を答案に書いたら、落第することになるのでしょうか?
ちなみに、中西進氏の訳は、"白崎は変わらずに待っていよ。大船の両舷に立派な舵をいっぱい通して、またやってきて見よう"というもの。また、久松潜一氏は、"白崎はつつがなく待っていてくれ。大船に楫を沢山つけてまた帰ってきて見ようから"と訳されていますが、サテ? 
ところで、白崎は、白い石灰岩の奇石が露出する景観に特徴があり、海岸沿いに進む船側から見ると、大きな目印になったに違いありません。一時は石灰石が採掘されて景観が荒れたようですが、現在は岬全体が白崎海洋公園に指定されて、白崎万葉公園などが整備されています。


(記: 2010年9月1日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/9/1 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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