万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


08-1557 明日香川  行き廻る岡の 秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ 丹比真人国人 豊浦





写真: 甘樫丘の秋萩
Oct. 3, 2010
Manual_Focus, Micro Lens105mm, Format67
RVP100F

題詞に"故郷の豊浦寺(とゆらでら)の尼の私坊にして宴せる歌三首"とあり、その1首目。"丹比真人国人"の作。
"明日香川の流れが廻る丘の秋萩は、今日降る雨に散ってしまうのでしょうか。"

天武13年(684年)に、八色の姓(かばね)が制定されて、十三の皇親を対象に"真人(まひと)"の姓(かばね)が与えられたことが記紀にみえますが、そのひとつが丹比(たじひ)氏であったとされています。新姓氏録によると、丹比(多治比とも言う)氏は、28代宣化天皇の末裔で、臣籍降下の後、藤原-奈良時代にかけて、有力貴族として朝廷で活躍しました。文武朝で左大臣を務めた多治比嶋(たじひのしま)、大宰府長官、平城京造営長官を務めて元正朝で大納言になった多治比池守、長屋王の変で活躍し、蝦夷征伐で名をあげた多治比県守(あがたもり)などが有名です。この歌の作者の丹比真人国人(くにひと)は、多治比県守の子供にあたります。
多治比県守の娘に大伴旅人の妻となった多治比郎女がいて、この女性は万葉集編者で有名な大伴家持の母にあたるので、多治比国人と大伴家持は、叔父-甥の間柄にあたることになります。国人は、皇族親政を目指す橘諸兄に政治的に近く、反藤原仲麻呂の立場にあったので、その意味でも大伴家持とは近い関係にありました。ただし、橘奈良麻呂の乱(天平勝宝9年(757年))で、国人が連座させられて伊豆に流されたのに対して、家持は中立的な立場を貫いて危うく難を逃れ、翌年(天平宝字2年(758年))因幡国守に赴任しています。万葉集に収められた歌の多くは、橘諸兄のサロンが中心になって作られたことは周知の事実なので、事実上このときをもって万葉集の編纂は終わったということがいえます。万葉集最後の歌が、大伴家持が因幡に赴任したときに詠った「新しき年の 初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事」の歌であることは大変意味深長です。
さて、本論に戻って歌の内容に入ることにしましょう。
この歌には、国人が飛鳥の豊浦寺の私坊の宴席で詠ったという注釈があります。現在豊浦(とゆら)の地には向原寺があって豊浦寺の跡とされていますが、欽明天皇の時代に百済の聖明王から仏像が送られたときに、親仏派の蘇我稲目がその仏像を下賜されて私邸に置いたのがこの豊浦寺の始まりで、それ故に日本最初の寺として知られています。一時推古天皇の豊浦宮が置かれたこともあって、発掘調査が行われたりもしました。
国人の歌に詠われている明日香川を行き廻る丘とは、甘樫丘を指すと思われます。豊浦は、甘樫丘の麓にあって、しかも明日香川が甘樫丘を取り巻くようにカーブする内側にあって、歌に詠み込まれた景色とぴったり符合します。
国人の歌には、尼達が返した反歌二首が添えられています。複数の尼が宴席で同席したと思われ、作者は沙弥尼等となっており、秋萩は、宴席に同席した尼達のことを暗喩していると解釈することもできます。

08-1557 明日香川  行き廻る岡の 秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ 丹比真人国人
08-1558 鶉鳴く 古りにし里の 秋萩を 思ふ人どち 相見つるかも 沙弥尼等
08-1559 秋萩は 盛り過ぐるを いたづらに かざしに挿さず 帰りなむとや 沙弥尼等

飛鳥あるいは藤原京に都があった時代、豊浦寺は有力な尼寺だったので、尼僧は有力貴族の女子から選ばれたものと思われます。国人は奈良朝で活躍した人で生没年がはっきりしませんが、その父親の多治比県守の生年が668年から737年ということは文献上明確なので、沙弥尼を同世代あるいは一世代前の人と仮定すると、飛鳥-藤原京の時代に若くして豊浦寺に入寺して、平城京遷都の後もそのまま飛鳥に残った人ではないかと推測できます。いずれにしても、豊浦寺の尼達は、もともとは貴族の出でありながら、飛鳥にそのまま取り残されてしまった人達であったはずです。

1557番歌、1558番歌、1559番歌の訳を並べて載せておきます。

08-1557 明日香川の流れが廻る丘の秋萩は、今日降る雨に散ってしまうのでしょうか。 丹比真人国人
08-1558 鶉の鳴く古びた里に咲く秋萩を、思う人と一緒に見れました。 沙弥尼等
08-1559 秋萩は盛りを過ぎようというのに、かざしにすることもなく、何もせず帰ってしまわれるのですか。 沙弥尼等

1559番歌ゆえにこの歌を恋歌であるとする解釈がありますが、私は、沙弥尼は国守と同族であって、国守は平城京からわざわざやってきてその人を見舞ったのではないかと推測しています。歌意の解釈から、1558番歌が沙弥尼その人の歌であって、1559番歌は沙弥尼の同僚の尼が、沙弥尼に代わって詠った歌ではないかと考えています。
沙弥尼が詠ったと考えられる1558番歌は、都が平城京に移ってしまって取り残されてしまったことを嘆息するのではなく、親しい人達とひとときを過ごすことが出来た喜びを素直に詠っています。"思う人どち"とは"一緒に居たいと思う人達"という意味なので、国人ひとりを指しているのではありません。"思う人どち"の中には、宴席に一緒にいる同僚の尼僧達も含まれていたのに違いありません。 私は、この歌に沙弥尼の清明な人柄を感じます。
和歌の出来では、国人の1557番歌が抜群に優れていると思いますが、沙弥尼の1558番歌も捨てがたい味があります。それに対して、1559番歌はやや感情的で、しかも内容は面白いけれども類型的な歌いぶりというべきで、沙弥尼本人の歌ではなく、宴席に同席する沙弥尼の同輩の歌ではないかと考えています。
(記: 2010年10月17日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/10/17 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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