万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


06-1060 三香の原 久迩の都は 荒れにけり 大宮人の うつろひぬれば 田邊福麿歌集 恭仁京




写真: かつての恭仁宮、山背国分寺塔跡
Mar. 20 2009
Manual_Focus Lens50mm, Format67
RVP100

恭仁京から難波京に都が移ったときに詠われた21首の歌のひとつで、"春の日に、三香の原の荒れたる墟を悲しび傷みて作る歌"とある。「三香(みか)の原の恭仁京は荒れてしまった。大宮人が去ってしまったから」という意味。"田邊福麿歌集に出づ"という脚注がある。

聖武天皇は、藤原広嗣の乱を避けるように、天平12年(740年)に平城京から恭仁京(京都府相楽郡加茂町)に遷都しました。その後聖武天皇は度々遷都を繰り返して周囲を驚かせることになります。天平15年(743年)に紫香楽宮(滋賀県甲賀町信楽町)へ、そして天平16年(744年)に難波宮(大阪市中央区)へ遷都を行いました。記録によると、天平16年(744年)閏正月な恭仁京と難波京のいずれをとるか官人と市人に問うたところ、官人はわずかに多く、市人は絶対多数で恭仁京を支持しましたが、難波宮に行幸があって、ついで2月諸役人や駅鈴・内外印・高御座・大楯・兵器を移し、26日には難波を皇都とする勅が下り、恭仁京は古都となったとあります。この歌は、この難波遷都の後に詠われたものと思われます。なぜなら、この歌の後の1062番歌に、"難波の宮にして作る歌一首"と題詞がある新都を言祝ぐ長歌があって、この歌と対になっているからです。柿本人麻呂が近江京の荒廃ぶりを詠った"荒都泣哀歌"の流れを汲む歌と思われます。
その後、恭仁宮跡に"山背国分寺"が建立され、宮殿の大極殿が金堂に改められ、東西に五重塔が建てられました。現在、ご覧のように山背国国分寺跡は礎石が残るのみで、芝生の広がる史跡公園になっています。
(記: 2009年4月25日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/4/25 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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