万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


06-1033 御食(みけ)つ国 志摩の海人ならし ま熊野の 小舟に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ 大伴家持 志摩




写真: 志摩間島半島から月夜に外洋を望む
May 4 2012
Manual_Focus Lens28mm, Format35mm
RDPV, Long Exposure

題詞に"狭殘(さぎ)の行宮にして大伴宿禰家持の作る歌二首"とあり、その一首。
"天皇の御食(みけ)を貢ぐ国である志摩の海人(あま)だろうか。熊野の小船に乗って沖に漕ぎ出していくのが見える。

今年のゴールデンウィークは9連休ということで、私も一泊で伊勢方面に旅をしてきました。といっても、前日に急遽日程を繰っての単独行なので、宿がなかなか取れなくて困りました。旅の目的は、伊勢あたりにいくつかある万葉の故地を訪ねること。だから、手軽に伊勢市か鳥羽で泊ることを考えていたのですが、ゴールデンウィークはだいたいがどこも満杯状態で、急に泊れそうなところはビジネスホテルか民宿だけ。しかも、その多くが一人客の宿泊はお断りというので、ようやく探し当てたのが、志摩半島の外洋に面した"越賀"の民宿。志摩国北限の鳥羽からパールロードを南下して、磯部・鵜方を経て外洋に突き出た間島(さきしま)半島に出て、安乗・和具を通過して、半島突端の国府(こう)海岸に近いところまで行くと、ようやく越賀に到着します。鳥羽から越賀まで車で1時間半。ドライブが目的ではなかったのだけれども、結構ヘビーな日程になってしまいました。
"志摩"は風光明媚な内海の英虞湾が有名で、ホテルが林立する日本有数のリゾートエリアですが、志摩の地名が詠みこまれた万葉歌はこの一首だけということもあって、こんな遠くまで足を延ばすことは全くの想定外。それでも、この写真が撮れたのは、この越賀の民宿でのことなので、何が幸いするかわからないものです。
宿に着いたのは20時頃。食事、風呂を済ませると寝るしかすることがないので、就寝は22時半と早め。ただし、朝の斜光線が写真に好都合ということもあって、写真旅行の際には何時も早めに就寝して6〜7時頃には宿を出るようにしているので、ここまでは予定通り。ところがこの日は、夜中の2時頃にひどい風音に眼が覚めて、部屋の窓から外を覗くと、ご覧のような月光に煌く海が広がっていたので、あわててカメラを用意して、バルコニーに出て撮影を開始しました。強風が吹く中、私は寝巻き姿で1時間ほども夢中になってシャッターを切り続けていたはずですが、この神秘的な景色が眼前になければ、寒くて10分も我慢できなかったに違い在りません。
神の光臨を感じる一瞬でも在りました。

題詞にいう"狭殘(さぎ)の行宮"は定まった説がありませんが、奈良から松阪近辺の伊勢湾に抜ける街道の途中にあったと考えられ、三重県壱志郡あたりとされています。三重県壱志郡は山中にあって、志摩とは方向が異なるので、志摩を詠み込んだ歌の題詞に、"狭殘(さぎ)の行宮にして大伴宿禰家持の作る"とあるのは不思議な気がするのですが、本当に家持は志摩に行かずにこの歌を詠んだのかも知れません。というのは、この歌が詠まれた頃、藤原広嗣の乱が起こったことが契機となって、所謂"聖武天皇の彷徨"が始まっており、その歌もその随行中に詠まれたと推定されるからです。
万葉集1029番歌の題詞に"天平12年(740)冬10月、太宰少弐藤原朝臣広嗣謀反して軍を発せるによりて、伊勢国に幸しし時に、河口の行宮にして内舎人(うどねり)大伴宿禰家持の作る歌一首"と説明があり、その1029番歌から続く1037番歌までの9首は、この"聖武天皇の彷徨"の折に詠われた歌の一群と考えられからです。そのような前後関係から、"狭殘(さぎ)の行宮は、河口の行宮(三重県壱志郡白山町川口?)近くにあった行宮のひとつと考えられます。
この伊勢行幸の日程がわかっているので、列記します。

天平12年 9月11日 伊勢神宮に奉幣司を遣わして
10月19日 造伊勢行宮司を任じ
10月29日 伊勢神宮に行幸
伊賀・伊勢・美濃・近江を経る
12月15日 山背国恭仁宮(京都府相楽郡加茂町)に着く
恭仁京を都とする。
天平15年 紫香楽宮(滋賀県甲賀町信楽町)へ遷都
天平16年 2月 難波宮(大阪市中央区)へ遷都
天平17年 5月 平城京に戻る

それでは何故、志摩の歌が、山中の"狭殘(さぎ)の行宮で詠まれたのか?
それは、志摩が、御食(みけ)つ国と呼ばれて豊富な海産物(あわび、さざえ、貝、海草など)を天皇の食事に供したところであり、その陸路が伊勢を経由して、この狭殘(さぎ)の行宮あたりを通っていたからです。いまでも、伊勢神宮の御供のほとんどは志摩地方から調達されており、奈良時代にも奈良の都に鮑などの海産物が志摩国から運ばれていたことが、平城宮跡から出土した木簡資料等からわかっています。しかも、この時は天皇の行幸中であったので、行宮に志摩の海産物が特に多量に運ばれたのではないでしょうか。つまり、大量の献納物が贈られたことに対する祝賀として詠われた歌が題掲の歌なのです。したがって、歌の内容から判じて、貢物を贈って来たのは、"志摩の海人"でなければなりません。
"ま熊野の小舟に乗りて"とあるように、志摩の海人は、熊野の海人が使うのと同じ小さい舟を使っていたようです。例えば、中世に熊野水軍の九鬼氏が活躍しますが、彼らは熊野を本願地としながら、志摩地方に拡散して、戦国時代には戦国大名となる九鬼嘉隆を輩出します。彼の本拠地は志摩北限の鳥羽城でした。
おそらくは奈良時代にあっても、志摩国は、熊野の海人族の勢力圏として意識されていたのではないでしょうか。
(記: 2012年5月20日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2012/5/20 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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