万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


06-1023 大崎の 神の小浜は 狭けども 百舟人も 過ぐと言はなくに 石上乙麻呂 大崎




写真: 大崎の神の小浜
Jul. 18, 2010
Manual_Focus Lens50mm, Format67
RVP100F

石上乙麻呂卿が土佐国に配流されたときの歌。
"大崎の神の小浜は狭いけれども、大勢の船人が通過することなく、必ず寄っていく。"

石上乙麻呂は、当時権勢を欲しいままにしていた藤原四卿のひとり藤原宇合の妻久米連若売と恋愛関係になって、その罪で神亀11年(739年)に土佐に配流されました。乙麻呂は配流されるとき、三首の長歌と一首の短歌(反歌)を詠みました。長歌の内容が非常に面白いのですけれども、ここではその反歌(短歌)のみに焦点をあてて、説明をすすめます。
歌では、"大崎の神の小浜は狭けれど"となっており、浜が狭いと解釈されがちですが、実際に現地に行ってわかったことは、浜が狭いのではなくて、浜の小浜に至る海門(かいと)が狭いということです。大崎の神の小浜は、両端から突き出した岬によって入り口が極端に狭くなって天然の防波堤のような役割を果たしており、その奥に長細い袋小路のような浜があって、小船が外海の荒天を避けるにはうってつけの地形をしています。天然の良港というべきでしょうか。写真の真ん中奥に僅かな緑の切れ間が見えますが、その僅かな隙間が、この海門にあたります。


なお、石上乙麻呂が土佐に配流されたときの航路は、長歌の内容と併せて考えるならば、都(平城京)から南下して竜田山の恐の坂を越えて、河内・和泉を経て、住吉の浜から舟に乗って海岸沿いに南下、大崎の神の小浜に至ったことが分かります。大崎は、紀州半島の西に突き出た半島の先にあるので、乙麻呂は、おそらくここから紀伊水道の約50キロを突っ切って四国(阿波)に渡り、そこからまた海伝いに南下して土佐に向ったと考えられます。これから向う紀伊水道の50キロは、当時にあっては命がけの渡海であったはずです。
(記: 2010年9月1日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/9/1 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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