万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


06-1018 白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我れし知れらば 知らずともよし 元興寺僧 元興寺極楽坊




写真: 元興寺極楽坊
極楽堂
Oct. 3, 2010
Manual_Focus Lens105mm, Format67
RVP100F

題詞に"天平十年(738年)、元興寺の僧が自ら嘆ける歌一首"とある。
"真珠は、深い海に沈んで人に知られることがない。しかし、知られなくとも良いのだ。知られなくとも、私だけがそのありかを知っていればそれでよいのだ。"

この歌には、"右の一首、或るいは云く、元興寺の僧の、独り覚りて、智多けれども顕聞(あらわ)れず、衆諸(もろもろ)のひと侮(あなづ)りき。これによりて、僧この歌を作りて、自ら身の才を嘆く"とする注記があります。作者の元興寺の僧は、自らの学才が全く評価されずにいることに、自分だけが知っておればよいのだと自虐を込めてこの歌を詠ったのです。
全くサラリーマンには身につまされる話です。どんなに優秀な人であっても、人間には必ず限界があって、例えもしそれが天才と言えるような人であったとして、現実社会の壁は万人に容赦なく存在します。一生勝ち組などという人がこの世に存在するのでしょうか。
文学は、むしろ人生の負けの中に存在するものであって、もしバリバリの勝ち組なんていう人がいたとしても、その人は立志伝でも書いていたら良いのです。ただし、そんなものは面白くも可笑しくもないので、ほとんどが1年もたてば中古書店の100円コーナー行きです。人生への深い洞察は、むしろ人生の負けから生まれるものではないでしょうか。私も既に人生の秋に差し掛かって、この僧の気持ちが痛いほどわかります。
ところで、元興寺は不思議な寺で、日本最初の本格的寺院とされる飛鳥寺の後裔でありながら、奈良時代には既に大安寺や興福寺の後塵を拝していました。滅亡してしまった蘇我氏の氏寺から発祥したというその縁起が災いしていたのに違いがありません。平城遷都後8年にして、ようやく飛鳥から平城京に移されましたが、その場所は、藤原氏の氏寺を背後の高台に望む京終の地でした。平安時代に南都を訪れた貴族の日記に、元興寺は、"怪しい仏像が祀ってある寺"として登場するので、もしかしたら、飛鳥時代の仏像をそのまま飛鳥から移して、いまだ古い三国渡来の仏教を奉じていたのかもしれません。その僧達も、東大寺や大安寺の僧と較べれば、やや傍系の出身であったことでしょう。
今に残る元興寺極楽坊の極楽堂(本堂)は、奈良時代の僧房を改築して本堂としたところで、もともとは飛鳥時代の建物をそっくりそのまま飛鳥から移築されたものと伝わります。僧房とは、僧が実際に住居したところなので、この歌の作者である元興寺僧も、ここで寝起きしていたに違いありません。
(記: 2010年12月5日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/12/5 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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