06-0917 |
やすみしし 我ご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山 |
山部赤人 |
和歌浦 |
06-0918 |
沖つ島 荒礒の玉藻 潮干満ち い隠りゆかば 思ほえむかも |
山部赤人 |
和歌浦 |
06-0919 |
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る |
山部赤人 |
和歌浦 |
写真: 和歌浦の内海
Jul. 17, 2010
Manual_Focus Lens300mm, Format67
RVP100F |
題詞に「神亀元年(724年)10月5日、聖武天皇が紀伊国に行幸されたとき、山部赤人が作った長歌と反歌二首」とあり、その反歌の第二番歌。
"和歌の浦に潮が満ちると潟がなくなるので、岸の芦の生えているところを目指して、鶴が鳴いて飛んでいく。"
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「続日本紀」に聖武天皇の神亀元年の和歌浦行幸の日程が詳細に書かれていて、10月5日に都を出発し、8日に和歌浦の玉津島に到着、12日に行宮を岡の東に作り、16日に弱浜(わかはま)の名前を明光浦に改めて、春秋に官人を遣わして地霊を祀る詔を行い、10余日滞在した後、21日に和泉に帰り、23日に帰京したということが分かっています。この歌は、玉津島の行宮で行われた宴会の席で、行幸に供奉した山部赤人によって詠まれたものと推測されます。
当時の和歌浦は、今とは地形が異なって、紀ノ川がこの和歌浦に注いでおり、砂州を形成している片男波海岸は、紀ノ川の本流が現在のように和歌山港に落下するようになってから形成されたもので、奈良時代にはなかったと考えられています。また、現在玉津島神社周辺は完全に陸地化していますが、その当時は海中にあり、神社とそれにつならる後方の丘陵(奠供山、雲蓋山、妙見山、船頭山)は海中に浮かぶ島で、それらを総称して"玉津島"と呼ばれていたと考えられます。
山部赤人の長歌はあまりに平明で、柿本人麻呂の荘厳な長歌の調べと比較して一段落ちるという一般的な評価がありますが、宴会の席で眼前の景色を当意即妙に詠みこむことを第一に求められていたことを想定すると、この歌はまるで「琵琶湖就航の歌」のように和歌浦の名所がうまく盛り込まれていて、しかも誰にもわかりやすく詠われています。
ただし、山部赤人の芸術的な世界はその後の反歌(短歌)二首に強く表現されていて、まるで平安時代の叙景歌のように繊細かつ秀麗です。長歌の名所めぐり的な分かりやすい歌をキャンバスに、一転して第一反歌で玉藻の揺らめくイメージを描き、第二反歌で芦辺に鶴が飛翔するイメージを重ねて、全体として荘重なハーモニーを奏でることに成功しています。 |
(記: 2010年8月25日) |
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