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古(いにしえ)に 在りけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解きかへて 伏屋(ふせや)立て 妻問しけむ 葛飾の 眞間(まま)の手児名(てこな)が 奥つ城を こことは聞けど 眞木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみもわれは 忘らゆましじ |
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我も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥城所(おくつきところ) |
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葛飾の 真間の入り江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ |
山部赤人 |
千葉県市川市真間
手児名霊神堂 |
写真: 千葉県市川市真間
手児名霊神堂(てこなれいしんどう)
境内に残る入江跡の池
Jul. 16 2009
Manual focus, Lens50mm, Format35mm
RDPV |
真間の手児名霊神堂は、かつて下総国の国府があったとされる国府台の崖下にあります。かつてはこの辺りまで、入江が入り込んでいたとされ、江戸時代くらいまでは沼沢が多いところだったようですが、今は全くの住宅街になってしまいました。ただ、手児名霊神堂境内裏に、この蓮池だけがかろうじて残って、かつての入江の痕跡をとどめています。奈良時代頃は、この入江が国府の物資輸送上の重要な港湾だったようで、研究者による入江の想定図を拝見したところでは相当な大きさがあって、大きな船も多数行き来できたはずです。古代には、河口部に広がる砂州に広がるラグーン(潟)が天然の良港とされたので、真間の入江もそんなひとつだったのでしょうか。
山部赤人は、この歌を歌ったとき、実際にこの地を訪れたとされますが、当時真間に海草を刈る人々がいたかどうかはわかりません。玉藻刈るというのは、古い歌によく見られる類型的な表現であって、真間の手児名が、海辺の貧しい人々の一人であったということを形式的に詠っているに過ぎません。山部赤人の歌は都ぶりで、あまり土俗の匂いがしません。実際にこの地で伝聞を聞いていたとしても、あくまで都人に彼の地の奇譚を伝えることが、この歌の目的であったに違いありません。
その意味では、同じ真間の手児名を詠った歌でも、高橋虫麻呂(常陸国府の役人であったらしい)の1807番歌-1808番歌は生き生きしていて、はるかに情感豊かと思うのですが、ハテ? |
(記: 2009年8月1日) |
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