万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


03-0264 もののふの 八十(やそ)宇治川の 網代木(あじろぎ)に いさよふ波の ゆくへ知らずも 柿本人麻呂 宇治川




写真: 宇治川の黄昏
November 12, 2011
Manual_Focus Lens105mm, Format67
RVP100F

題詞に"柿本人麻呂、近江国より上り来る時、宇治川の辺に至りて作る歌一首"とある。
"多くの武人が往来したという宇治川の網代木(あじろき)に流れ来て、行き場をなくしてさ迷う波のように、私の気持ちもさ迷って、どのようにしてよいかわからないことだ。"

古来無常観を詠んだ名句とされています。川面を洗う波が西の彼方に落ちて、永遠の彼岸に消えていくかのような儚い景色が思い浮かびます。
実は、宇治川が山城平野に注ぐ"宇治"の地は、古来朝日の名所とされていて、宇治平等院鳳凰堂(平安時代、国宝)の正面から川向こう、東方に見える小山を朝日山と呼び、朝日山の山麓には、世界文化遺産にもなっている古社"宇治上神社"と"宇治神社"があります。
平等院鳳凰堂は、早朝に神の坐す朝日山から上る太陽の暁光を正面に浴びて、夕刻には背面に沈む夕陽を頂いて、阿弥陀如来の来迎を迎えるという仕組みになっていました。
宇治川は、朝日の方角から流れ出でて、八十(やそ)の宇治川というように、現代の宇治橋辺りから、水流が幾筋にも分かれて西方の巨椋池(おぐらのいけ)に流れ込む地形になっていました。ただし、豊臣秀吉の開鑿によって堤が築かれて、宇治川の水流は北の伏見に流れ込むように変更されてしまったようです。巨椋池は昭和初期に干拓事業が行われて消滅してしまいました。宇治は朝日の名所というだけではなくて、かつては西方に広大な巨椋池を望んで、夕景の絶景地でもあったに違いありません。

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人麻呂の生きた時代に、阿弥陀来迎の思想はまだありませんでしたが、この歌にはそのようなことを連想させる世界観があります。この歌が無常観を詠った名句とされる所以です。

ところで、この歌にはもうひとつ伏線が用意されていて、"八十宇治川"に掛かる"もののふの"という掛詞についても触れておかねばなりません。周知の通り、"もののふ"とは"武士"のことであり、この掛詞は、宇治川流域が武士の血脈が幾重にも重なる土地柄であったこと、そして八十の巷(やそのちまた)という詞にもあるとおり、東西に主要道が通じた軍事的要衝の地であったことを示しています。
実は、柿本人麻呂は、持統朝に宮廷歌人として頭角を現し、後に歌聖と崇め奉られた人物ですが、それは30代から40代に掛けての壮年時代のことと思われ、若き日々には武人としてこの辺りを疾駆していた可能性があります。古代最大の争乱とされる壬申の乱が起こったのは672年のことであり、その戦争に人麻呂が直接加わった可能性があるのです。
人麻呂が宮廷歌人として活躍したことがはっきりしている680-700年を人麻呂の壮年期(25-45歳)に当てはめて考えると、壬申の乱は人麻呂が10代後半に起こったことになります。古代において、既に武人として活躍可能な年齢にあったといえます。
柿本氏は、古代豪族の和邇氏(わにし)の末裔であり、和邇氏はかつては天皇家の外戚として中央で権勢を振るい、特に武人として活躍しましたが、5世紀以降、春日氏、大宅氏、柿本氏、小野氏、粟田氏などの支流に分かれて全国に拡散していきます。、特に、山城、近江に勢力を拡大していったようで、宇治川流域もそのひとつとされています。
柿本人麻呂は、多くの歌を万葉集に残していますが、その中には宮廷歌人として飛鳥京あるいは藤原京で作歌した歌のほかに、"柿本人麻呂集から出ず"と注記のある人麻呂が個人的に編纂した私歌集から引き抜かれた歌が数多く含まれています。それらは、内容から考えて、人麻呂が朝廷に出仕する前に人麻呂が個人的に集めた歌の一群と考えられており、当然人麻呂自身が作歌した歌が多いと考えられます。
特に注目されるのは、これらの歌の中に、宇治川流域の地名が頻繁に出てくることです。略体と呼ばれる古い万葉表記を有するもの、旋頭歌という特殊な形式の歌謡などが含まれていて、明らかに古い様式を示しているものがあります。
柿本人麻呂の出自については、奈良県天理市和邇下神社あたり(和邇氏の本願地、人麻呂塚が残る)、あるいは奈良県葛城市の柿本神社あたりとする説が有力ですが、柿本人麻呂の古い歌に、宇治川流域を詠み込んだ歌が多いことを指して、柿本人麻呂は若き頃には宇治あたりに住まいしていたとする説、あるいは宇治川流域が出身地であったとする説があります。柿本人麻呂は、記紀に伝承がなく、万葉集にのみ登場する謎の人物ですが、唯一人麻呂を語る資料が万葉集である限り、この事実は大変重大なのです。

旋頭歌
07-1286 山背の 久世の社の 草な手折りそ 我が時と 立ち栄ゆとも 草な手折りそ
鷺坂に作る歌一首
09-1707 山背の 久世の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり
宇治若郎子の宮所の一首
09-1795 妹らがり 今木(いまき)の嶺に 茂り立つ 嬬松(つままつ)の木は 古人(ふるひと)見けむ
旋頭歌
11-2362
山背の 久背の若子が 欲しと言ふ我れ あふさわに 我れを欲しと言ふ 山背の久世
正述心緒
11-2403 玉久世(たまくせ)の 清き川原に みそぎして 斎ふ命は 妹がためこそ
寄物陳思
11-2425 山科の 木幡の山を 馬はあれど 徒歩より我が来し 汝を思ひかねて
11-2427 宇治川の 瀬々のしき波  しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも
11-2428 ちはや人 宇治の渡りの 瀬を早み 逢はずこそあれ 後も我が妻
11-2429 はしきやし 逢はぬ子ゆゑに いたづらに 宇治川の瀬に 裳裾濡らしつ
11-2430 宇治川の 水泡さかまき 行く水の 事かへらずぞ 思ひ染めてし
11-2471 山背の 泉の小菅 なみなみに 妹が心を 我が思はなくに
12-2856 山背の 石田の社に 心おそく 手向けしたれや 妹に逢ひかたき

記紀によると、柿本猿(さる)という人物が壬申の乱の後、宮廷に登場して朝臣という姓を賜り、708年に従四位下の官位で死んでいます。壬申の乱の功績による登用と考えられ、大和の豪族である柿本氏が壬申の乱において、積極的に大海人皇子(後の天武天皇)の側について、軍事活動を行った可能性があります。柿本人麻呂は、年代的には、この猿の息子あるいは一族の一人と考えられ、その意味では、壬申の乱に積極的に加わって武人として働いていた可能性が高いのです。この柿本猿を柿本人麻呂本人ではないかとする説もあるほどで、ともかく柿本人麻呂が壬申の乱に何らかの関係があったことは、ほぼ間違いないと考えられます。
壬申の乱は、宇治川上流の瀬田で行われた"瀬田の会戦"が大変有名で、美濃から進軍した大海人軍と近江朝の主力軍が瀬田の唐橋で激突して、大海人軍が勝利しました。同時期に行われた大和の会戦では、すでに大伴吹負(おおともふけい)をリーダーとする大海人軍の別働隊が勝利を収めており、その別働隊は瀬田会戦の折には宇治に至って、山崎に陣をひいていたとされています。宇治川流域は、血で血を洗う壬申の乱の激戦地でもあったわけです。この歌に深く刻まれた無常観は、滅んでしまった近江朝に対する鎮魂の意味が含まれているに違い在りません。
(記: 2011年11月20日)


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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/11/20 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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