万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


03-0235 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも 柿本人麻呂 明日香
/雷丘




写真: 明日香/雷丘
Oct. 10 2009
Manual_Focus Lens150mm, Format67
RVP100-F

題詞に、「天皇が雷丘にお出でになったときに、柿本人麻呂が作った歌一首」とある。歌意は、"大君は神でいらっしゃるので、天空の雷の上に庵をお立てになられることであろう"というもの。

壬申の乱の後、天皇親政による中央集権を推し進めた天武天皇から持統天皇の時代にかけて、急速に天皇の権威が高まり、それまで、大王(おおきみ)と呼ばれた呼称が天皇(てんのう)に変わりました。万葉集の中にも、この歌と同じように、「大君は神にしませば」と詠う類型歌が四首登場します。

03-0235 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも 柿本人麻呂
03-0241 大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも 柿本人麻呂
19-4260 大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ 大伴御行
19-4261 大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都と成しつ 作者不詳

このうち241番歌の「大君」は、「長皇子、猟路(かりぢ)の池に遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂が作る歌」という題詞があるので、天武天皇の第四皇子である長皇子を指すことが明確です。
また、4260番歌は、作者が天武天皇の親政を支えた大伴御行であることから天武天皇とする説が有力で、4261番歌も、4260番歌と詠われている内容が近いので、同じく天武天皇とする説が有力です。
ただし、詠われている新都を、天武天皇の「浄御原宮」ではなくて、持統天皇の「藤原京」とする説もあります。私は、どちらかというと持統天皇の「藤原京」の説をとりたいと考えています。実際明日香を歩いてみてわかることは、浄御原宮が営まれた真神原は明日香川の河岸段丘の上にあって、決して赤駒の腹這う田圃や水鳥のすだく水沼であったとは思えません。むしろ明日香川下流にあって、藤原京の中心部が営まれた藤井ケ原辺りは、明日香川の氾濫原にあたり、この歌の情景に近かったのではないかと考えられます。
さて、肝腎の235番歌を解釈する場合、やはり「大君」の解釈が重要で、万葉集には後書きとして、次のような注釈が記されています。
或る本に曰はく、忍壁皇子に奉るといえり。その歌に曰はく
大王(おおきみ)は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます

一般には、庵を建てたのを"持統天皇"とする説が有力で、加えて、後書きを重視して天武天皇の第9皇子"忍壁皇子"に充てる説があります。しかし、それだけでは正しい解釈になっていないのではないかと私は考えています。
すなわち、歌の歌意と前後関係から判じて、まず忍壁皇子が雷丘を含む地域を宮として営んで、柿本人麻呂が忍壁皇子に奉った歌に、「大王(おおきみ)は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます」という歌があったのではないかと推測します。その上で、持統天皇が忍壁皇子の宮に外遊された折に、柿本人麻呂が再び詠んだ歌が、"天雲の 雷の上に 廬りせるかも"の235番ではなかったかと考えています。人麻呂は、"天皇であられる持統天皇であれば、忍壁皇子が庵をお建てになった雷丘のような小さな岡の上ではなくて、天空の雷の上に庵をお建てになるだろう"と大きく持統天皇を称えていると私は解釈します。
通説では、持統天皇あるいは忍壁皇子が、「神であられるので、雷丘の上に庵をお建てになった」と解釈するものがほとんどですが、それなのに雷丘が現実には天皇の権威を誉めそやすにはあまりに小さすぎると不思議がるばかりで、説明がうまくされていません。よく歌の内容を吟味してみると、「天空の雷の上に 庵をお建てになられるかもしれない」と詠っているのであって、「雷丘の上」と言っているのではありません。天空の雷の上といっているのです。そして「かも」とあくまで仮定で締めくくっています。歌意の理解において、矛盾が放置されていることは明白です。
このように解釈しなおしてはじめて歌の真意が読み取れるのであり、人麻呂特有の壮大な叙景世界が蘇ってくるのです。
(記: 2009年10月31日)


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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/10/31 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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