姫島は、西淀川区の新淀川河畔にあって、古代には難波潟にあった島のひとつとされています。第一句で、姫島にかかる掛詞の「千代に流れむ」は、姫島が、かつては淀川下流のデルタ地域にあって、水の流れが複雑に入り組んでいた地形を説明しています。淀川は、木津川、宇治川、桂川、鴨川の4つの大川の水を集めて、今なお滔滔たる流れを持つ日本有数の大河です。江戸中期までは、これに大和川の水流も加わっていました。大阪の地形は、上町台地が淀川の口元をギュッと絞るような形になっていて水流がすさまじく、また河口から西には遠浅の難波潟が広がって干満の差が激しいので河口部で潮がぶつかり合って奔流と逆流を繰り返したので、故に"なみはや(浪速)"あるいは"なんば(難波)"と呼ばれていたのです。
ちなみに、古代の淀川の河口は、上町台地から伸びる砂州に遮られて大きく北向し、現代の神崎川あたりにあったとされています。とすると、当時の姫島は淀川河口部にあったことにあります。姫島は、上町台地から北向きに伸びる砂州の外側に広がる難波潟の八十島(やそしま)のひとつであって、西面する姫島神社は、かつては海岸線に面していたはずです。その地形から判じて、姫島は大型の船の寄航には無理があるものの、物資を運ぶ小型の早手船の寄航に向いており、瀬戸内海と淀川水系の内陸部を睨んだ要衝の地であったと思われます。
中世-近世に掛けて難波潟は陸地化していきますが、姫島はなお海岸線に近く、大和田街道"沿いの一集落のような景色であったと思われます。江戸時代の古地図を見ると、神崎川と淀川支流の中津川に挟まれた地域にあったと思われます。
私の母方の実家がかつて姫島にあったことは228番歌の解説でも触れていますが、我が家の伝承では、明治頃の姫島は広大な田畑が広がる農村で、海沿いのイメージではなかったそうです。ただし、明治末の新淀川開鑿(おそらく江戸時代の中津川を拡張して本流とした)によって、淀川の大河がすぐ近く(南側)を流れていたこともあって、淀川の川原でよく遊んだそうです。中州で潮干狩りをしたことがあるそうですから、その頃の新淀川は、かつての姫島を髣髴とさせる美しい景色だったはずです。
ところが、戦後この地はすさまじい工業化の波に洗われて、有名な"西淀川公害訴訟"が昭和40年代に起こります。私は、子供の頃母に連れられて、姫島に残る親戚を訪れたことがありますが、その頃の新淀川の水は真っ黒で、あれほどの大河であるにも係らずヘドロから出るアンモニアの泡がブクブク音をたてているような状態でした。それが今は公害の影は消え失せて、工場の多くは撤退してマンション街になっていて、それなりに人が棲める町に変貌したというのは驚きです。
大阪は、かつては白砂青松の美しい水都であったとされています。それが1000年の歴史を経て、今のように平板で無機質な町になってしまいました。万葉集の故地を巡る旅をしていて思うのは、一番風景の変貌の激しかったのは大阪ではないでしょうか。大阪の湾岸に白砂青松を蘇らせることは、文明の発達した現代でも無理なのでしょうか。 |
(記: 2010年1月17日) |
|