万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


02-0207 天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 岩垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ妹が名呼びて 袖ぞ振りつる 柿本人麻呂 石川精舎跡の五輪塔
(軽)




写真: 軽、石川精舎跡とされる本明寺の五輪塔
Oct. 5 2008
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100

柿本人麻呂が、妻が亡くなったときに作った長歌のうちのひとつ。世に言う"泣血哀慟歌"。隠し妻の関係にあった妻が死んだという知らせを受けて、その面影を求めて軽の地をさ迷い歩き、遂には妻の名前を呼んで袖を振る人麻呂自身の姿を詠っている。

人麻呂は、宮廷歌人として多くの壮麗な宮廷儀礼歌を作りました。ところが、それとは別に自らの私生活を詠った相聞歌や挽歌を数多く残しています。この歌はそれらの中で最も有名なもので、泣き妻を偲んで作られました。題詞には「柿本朝臣人麻呂、妻死りし後、泣血哀慟して作る」とあります。人麻呂は、万葉集に数多く残るその歌から数人の妻がいたことが推定されています。この軽の妻は隠し妻であったらしく、突然の妻の死に人麻呂は驚いて、亡くなった妻の面影を追って、かつて妻がよく行った軽の市をさ迷い歩きました。軽の辻は、下ツ道と横大路の交差点にあたり、市場が立って、藤原京の時代には最も繁華なところでした。写真の五輪塔は、飛鳥時代の石川精舎跡といわれる本明寺にあって、蘇我馬子の供養塔という伝承があります。下ツ路は、その後ろの住宅街の中を現在も南北に走っています。
(記: 2008年11月3日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2008/11/3 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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