万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


02-0158 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく 高市皇子 山吹




写真: 般若寺の山吹
Apr. 14 2009
Manual_Focus Lens75mm, Format645
RVP100

十市皇女が亡くなったときに、高市皇子が読んだ挽歌。"山吹の花が美しく咲いている山の清水を汲んで、黄泉の世界のあなたに会いに行こうと思うが、道が分からないだ"と嘆く。この歌の脚注に「日本書紀にいうことには天武7年(678年)4月7日に十市皇女は突然発病して宮中で亡くなった」とある。

十市皇女は、悲劇の主人公です。あの額田女王の唯一の娘でありながら大海人皇子(後の天武天皇)の長女で、大海人皇子と皇位を争った大友皇子の后となったものの、壬申の乱では愛する夫を父の大海人皇子に殺されています。その後、天武天皇の宮中にあって、次の皇位を窺う高市皇子に求愛されます。高市皇子はやはり天武天皇の長子で壬申の乱では将軍を務めて最大の功労があったとされる人物で、この頃次の皇位を窺う位置にありました。但し、高市皇子の母が筑紫の地方豪族胸形君徳禅善の女尼子娘であることが、皇位を得るための大きな弊害になっていました。高市皇子の十市皇女への求愛は、高市皇子の血統上の弱点を、高貴の血の濃い十市皇女を得ることで補おうとする高市皇子の野心から来ているという説があります。そもそも十市皇女が大友皇子に嫁いだのも、英邁の資質が高く、次の天皇位を約束されていた大友唯一の弱点である庶腹(母親は伊賀采女宅子娘)という出自をそのことで補おうという政治的な意図があったとされており、十市皇女は自らの貴種故に歴史に翻弄されることになります。ただし、この歌から高市皇子の十市皇女に対する純粋な愛を感じることができるのですが如何でしょうか。
井上靖の小説「額田王」では大海人の後宮で、ほぼ同年代の異母姉弟の高市皇子と十市皇女が一緒に仲良く遊んでいる場面が出てきますが、実際そのような環境でこの二人は育っていて、その頃から高市皇子は十市皇女に淡い恋心を育んでいたのではないでしょうか。壬申の乱では、近江王朝側の要人の多くが自死し、あるいは行方不明になっています。例えば、大海人と覇を争う大友皇子(弘文天皇)、天智天皇の大后であった大倭姫王ほか、多数の皇族や官吏がなくなっています。その中で、大友皇子の妻であった十市皇女とその母である額田女王は命を永らえています。これは、大海人軍の最高司令官であった高市皇子の配慮によるものであったというのは、文学的な想像に過ぎるでしょうか。
しかし、十市皇女の天武7年の突然の死は、皇女が自殺したからという説があります。日本書紀にその前後関係が語られていて、天武7年の春天武天皇は天地の神々を祭るために、倉梯(くらはし)の川上に斎宮を建て4月7日の暁に百寮の人々を召し連れて行幸しようとしたところ、「未だ出行するに及ばざるに、十市皇女卒然に病発り、宮中に薨りね。」とあります。一説には、高市皇子と十市皇女が結ばれて高市皇子の皇位継承の可能性が高まることを恐れて、草壁皇子の皇位継承を目論む鸕野皇后(後の持統天皇)が、十市皇女を斎宮に送り込もうとしたからではないかということですが定かではありません。
なお、日本書紀によると十市皇女は、赤穂の地(現在の桜井市赤尾)に葬られました。高市皇子が詠んだ山吹の花の咲く山清水とは、"黄泉の国"を表しており、死後の世界に旅立ってしまったあなたに会いに行きたいが、道が分からないと嘆いているのです。高市皇子は、その後国政を一手に取り仕切って太政大臣となるものの結局天皇にはなれず、持統天皇4年(690年)に44歳で薨去しています。
(記: 2009年6月1日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/6/1 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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