万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


02-0147 天の原 振り放け見れば 大君の 御寿は長く 天足らしたり 倭姫王 近江宮
02-0148 青旗の 木幡の上を 通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも 倭姫王 近江宮
02-0149 人はよし 思ひやむとも 玉葛 影に見えつつ 忘らえぬかも 倭姫王 近江宮
02-0150 うつせみし 神に堪へねば 離れ居て 朝嘆く君 放り居て 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱く時もなく 我が恋ふる 君ぞ昨夜の夜 夢に見えつる 婦人 近江宮
02-0151 かからむと かねて知りせば 大御船 泊てし泊りに 標結はましを 額田王 山科
02-0152 やすみしし我ご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の唐崎 舎人吉年 近江京
(唐崎)
02-0153 鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ 倭姫王 山科
02-0154 楽浪の 山守は誰がためか 山に標結ふ 君もあらなくに 石川夫人 山科
02-0155 やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ 額田王 山科




写真: 天智天皇陵、山科
November. 2 2008
Manual_Focus Lens105mm, Format67
RVP100

155番歌は、天智天皇の殯宮を退出するとき、額田王が詠んだ歌。万葉集には、天智天皇の挽歌が、額田王を含む九首が残っているが、額田王のこの長歌はその末尾におかれている。「恐れ多くも亡き天智帝の坐す山科の鏡山に、夜も昼も泣きくれていたが、今日はもう宮人達は去ってしまうのだなあ」という意味。

天智天皇が亡くなったのは、天智天皇10年(671年)12月3日で、翌11年6月には、古代最大の騒乱壬申の乱が始まっています。そのような状況の中で急いで殯宮が行われたときに詠われたのがこの155番歌であろうとされています。九首の挽歌の最初に天智天皇の大后である倭姫王の歌が三首あり、大殯(おおあらき)の額田王、石川夫人などの歌を経て、最後に「山科の御陵より退き散くる時、額田王の作る歌一首」という題のあるこの歌が詠われています。
155番歌に関しては、非常に形式的であって、あの額田王にしては駄作との評価があります。政変急なときにあって、しかも大后に遠慮しながらの作歌ということもあったかもしれません。このとき、額田王は天智天皇と愛情関係があったにもかかわらず、后の立場にありませんでした。ただし、額田王自身が皇族であって、娘の十市皇女が皇太子の大友皇子の妻で、しかも十市皇女の父は大海人皇子であったので、その立場はおそらく近江王朝の後宮の家宰のようなものでなかったかと思われます。文才秀でて宴席の華だったので、近江王朝での立場はそれほど小さくはなかったのではないでしょうか。年齢も、既に40歳を超えていたはずです。
壬申の乱の後、額田王の消息はほとんど聞かれなくなります。もともと大海人の后のひとりであって、娘までもうけながら、後に天智天皇に召されて後宮に入ったという経緯が災いしたようです。この歌が、額田王の華やかな宮廷生活の最後の歌になりました。
ところで、私は、天智天皇葬送歌九首の多くは、額田王の草案になるものではないかなと思っています。あまりそういう説が見当たらないので、自説を簡単に記載しておきます。
147番歌から149番歌の三首の短歌は、天皇が亡くなられたときに大后の倭姫王が詠った歌であることは揺るぎがありませんが、作者不詳(題詞には「婦人が作った」とだけ記されている)とされる150番の長歌は、額田王の歌ではないか思います。長歌にしては短い簡素な歌ですが、歌の巧拙というより、そのテンションの高さが他の歌と明らかに違います。特に長歌は全体の調子を整えることが難しいので、凡百の詩人ではこの調子は出ないと思います。直木孝次郎さんも同様の説を述べておられますね。
それから、その後に連なる大殯の四首は、153番の大后の長歌を中心に構成されているところが非常に重要です。すなわち、琵琶湖の叙景を中心とする153番の大后の長歌を中心に、その前後に額田王の151番歌、舎人吉年の152番歌、石川夫人の154番歌が配置されていますが、みごとに琵琶湖の景色に統一されています。また、石川夫人の154番歌は「山に標結ふ」と詠われていて、額田王の151番歌が「泊りに標結はましものを」となっているのと、山/湖で対を成しています。この大殯四首の後に、上記の額田王の「山科の御陵より退き散くる時」の歌が置かれているので、全体的な統制が見事に取れているのです。このように考えると、大后の153番歌も額田王が作って大后に献呈したものと見るのが順当であって、その他の大殯の歌も同様と思います。
さらに歌の内容を吟味してみると、147番歌から150番歌までの四首は比較的自由な作風で、特に大后作の148番歌と、作者不詳(額田王の作?)の150番歌が素晴らしく、それに対して、151番歌から最後の155番歌は非常に形式的で、全体の調和が重んじられています。全体の構成から判じて、歌謡で言えば、皆で順番に歌う"輪唱"のようなものではなかったでしょうか。
(記: 2008年12月23日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2008/12/23 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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