万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


02-0141 磐白の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む 有間皇子 磐代




写真: 磐代の有間皇子結松記念碑
July 17, 2010
Manual_Focus Lens50mm, Format67
RVP100F

有間皇子が謀反の疑いで捕らえられて、牟婁の湯(和歌山県白浜町)に送られるときに磐代(和歌山県日高郡南部町)で詠んだ歌。
"磐代の浜松の枝を引き結んで、もし幸運にも命があったならば、再び帰ってこの結び松を見よう。"

この万葉歌は、有間皇子の悲劇を孕んで古来有名で、万葉歌人にとって、歌を手向けざるをえない聖地のようなところであったようです。次のような歌が、山上憶良、柿本人麻呂らによって詠まれています。

長忌寸意吉麻呂、結び松を見て哀しび咽ぶ歌二首
02-0143 磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも
02-0144 磐代の 野中に立てる 結び松 心も解けず いにしへ思ほゆ
山上臣憶良、追ひて和ふる歌一首
02-0145 鳥翔成(とりはなす?) あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
大寶元年辛丑、紀伊國に幸(いでま)しし時、結び松を見る一首
(柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ)
02-0146 後見むと 君が結べる 磐代の 小松がうれを またも見むかも

私もこの場所に立って行ってみたいとかねてから思っていたので、今回ようやくその思いがかなったわけですが、写真の通り、万葉歌碑のある場所は、国道沿いの交通量が多いところで、しかも松が生い茂るばかりで、見えるはずの海を遮ってしまっていて、絶景とはいがたいところでした。それに薮蚊が多くて、夕刻の薄暗がりの中での写真撮影は大変でした。
かつてこの歌碑は、もう少し海寄りのJR線沿いにあったようですが、昭和39年に移転されてこのような殺風景な場所に置かれてしまったそうです。しかるべきところに海の見える公園でも作って移築されたほうが良いのではと、蚊に刺された手足を掻きながら、私は勝手にそう思ってしまいました。
この辺りを少し寄り道してみるとよくわかるのですが、海の見える素晴らしい景色の場所がいたるところにあります。JR西岩代駅近くにある、岩代王子から東の千里王子あたりまで続く千里海岸は、松林と砂浜が幾畳にも重なる絶景です。何故、あんなところに碑があるのだろう? サテ
素朴な疑問をもとに調べてみると、サテありました。顕彰碑の建てられているところの正式の地番が、「和歌山県日高郡南部町小字結(むすび)」なんだそうです。要するに、古来結び松の習慣が行われていたことが"結(むすび)"という字名に残っているので、この鄙びた場所こそが、有間皇子の旧蹟にぴったりというわけなんですね。
もうひとつ、地元で仕入れた情報を。
この有間皇子結松記念碑を熊野街道沿いに100メートルほど山手に進んだところに、光照寺というお寺があります。
そこにも有間皇子の同じ歌を刻んだ万葉歌碑が建っていますが、その地番が「和歌山県日高郡南部町岡(おか)」と言うんだそうです(説明板にそう書いてあった)。万葉集に詳しい方はピンとくるはずですが、磐代の結び松を詠んだ歌に、次の歌があります。

01-0010 君が代も 我が代も 知るや 磐代(いはしろ)の 岡の草根を いざ結びてな 間人皇后

この歌の下句は「磐代の岡の草根」を結ぶとなっています。つまり、間人皇后の歌に詠われている"岡"は地名であるという解釈が成り立つわけです。なるほど、磐代の結び松の習慣とは、"岡"の地の草根"を取って、やや海岸に下った"結"にある結び松の枝に結ぶものと解釈できるのです。光照寺には、やはり間人皇后の歌碑も建立されています。
一般にこの歌は、間人皇后が皇極上皇の「牟婁の湯行幸」に付き従ったときの歌とされていますが、私は有間皇子の関係で別の解釈をしています。(詳しくは、間人皇后の12番歌の注釈を参照))
有間皇子と間人皇后の一行は、この歌を詠んだ翌日にも中大兄皇子に接見することになっていたはずなので、そうした切迫した状況の中で、後世に残る絶唱が生まれたことになります。結局、有間皇子は、中大兄皇子と会った2日後に、藤白坂(和歌山県海南市藤白)で絞首刑に処されています。


(記: 2010年11月23日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/11/23 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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