万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


02-0111 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の 御井の上より 鳴き渡り行く 弓削皇子 吉野
02-0112 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 我が念へるごと 額田王 粟原
02-0113 み吉野の 玉松が枝は はしきかも 君が御言を 持ちて通はく 額田王 粟原




写真: 粟原寺跡から多武峰を望む
Oct. 10, 2009
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100

持統天皇の吉野行幸に同行した弓削皇子が、額田王に贈った111番歌に対して、額田王が返した歌。"昔を思い慕って鳴く鳥は、あなた様がおっしゃられるようにホトトギスでしょう。おそらく私が昔思い慕って鳴いたのと同じように鳴いたことでしょう"という歌意。

額田王は、中大兄王(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の二人に愛された伝説上の人物。歌の才能に恵まれて、天皇が託宣する歌を代作しただけでなく、斉明朝から近江朝にかけて自らの名でも多くの優れた歌を作りました。初期万葉の代表的人物とされています。ところが、壬申の乱を契機として、額田王は表舞台から忽然と姿を消すことになります。新しく天武天皇になった大海人皇子は、額田王の最初の夫でありましたが、後に額田王は中大兄皇子の寵愛を受けて天智天皇の宮室に入ったとされており、加えて額田王の一人娘十市皇女は、大海人皇子との間に生まれた長娘であったものの、天智天皇の皇太子であった大友皇子の皇后に迎えられていたので、壬申の乱で近江朝が滅んだ後、公式の場から姿を消さざるをえなかったようです。それ以降、この歌が詠まれるまで約20年間、額田王の消息は全く不明で、この歌の後は二度と表舞台に出ることはなく、その没年もわからないのです。
娘の十市皇女は、壬申の乱の後6年ほど生きて、天武天皇8年(678年)に突然亡くなっています。この歌が弓削皇子から額田王に贈られたときは、すでに持統天皇の御世(689-697年)だったので、額田王は一人娘をなくして、しかも齢は60歳前後であったと推測されます。
実は、額田王の晩年を偲ばせる有力な物的資料が談山神社にあります。談山神社のあった多武峰(とおのみね)山麓の粟原寺(おうばらじ)にあったという三重塔の銅製伏鉢(相輪の台座)が残っていて、その伏鉢に刻まれた文字に、晩年の額田王の存在を示す証拠があるというのです。銘文によると、粟原寺は、中臣朝臣大嶋が草壁皇子の追福のため造営を始め、その死後694年から比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)が造営を引き継ぎ、22年かかって金堂と釈迦丈六像を造って、和銅8年(715)に三重塔が完成したとあります。近年の学説では、この銘文中の比売朝臣額田が、万葉集の額田王であることが有力視されているのです。
近年学説はすすんで、額田王の父であった鏡王を、宣化天皇から分かれた忍坂(おしさか)王家の系譜に連なる人物に比定して、近江朝で重用され、壬申の乱前後になくなったとする説があります。さらに、忍坂王家は持統朝に臣籍に下って、威奈公と称するようになったとする説もあります。(福島隆三著「額田女王」 東洋書院刊)
これらの説はなかなか魅力的で、額田王が粟原に寺を建立した理由が良く説明できるのです。すなわち、粟原は、忍坂近くの山中にあって、このころ額田王が忍坂の地にいたとすると、いろいろな説明が簡単なのです。忍坂には、忍坂王家出身の舒明天皇の王墓があり、額田王の姉で藤原鎌足(中臣氏の出)の妻であったという鏡王女の墓もあります。そして、忍坂には、娘の十市皇女が葬られたとされる赤穂(=赤尾)という地名も残っています。
この歌が詠まれた頃、額田王は故郷の忍坂の地にあって、十市皇女の菩提を弔いながら、孫の葛野王(かどのおう、十市皇女と大友皇子の間に生まれた唯一の皇子)の養育に余生を捧げていたのではないでしょうか。
(記: 2009年12月1日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2009/12/1 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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