万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


02-0103 我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後 天武天皇 飛鳥
浄御原宮
02-0104 我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ 藤原夫人 飛鳥
小原




写真: 大伴夫人の墓から小原の集落を望む
Feb. 12, 2011
Manual focus, Lens105mm, Format67
RVP100F

天武天皇が后の藤原夫人(ふじわらのぶにん)に贈った歌。"私の住む里に大雪が降ったぞ。あなたの古びた大原の里に雪が降るのは、これよりも後のことだろう。"と無邪気にからかう天武天皇の歌に藤原夫人は返して、"わが岡の水神に祈って降らせた雪の砕けた一部がそちらに降ったのでしょう。"
藤原夫人を、藤原鎌足の娘の"氷上娘(ひかみのいらつめ)"あるいはその妹の"五百重娘(いおえのいらつめ)"とする2説がある。

大原の地は、かつて藤原氏が拠点としたところで、飛鳥寺の東、飛鳥坐神社の裏の高台にあります。現在、藤原鎌足誕生地の伝承のある小原神社と鎌足の母とされる大伴夫人の墓が残ります。写真は、大伴夫人の墓のある小さな丘から大原の集落を撮ったもので、背後の山が多武峯で、この左側に藤原鎌足生誕の地とされる小原神社があります。その裏手には鎌足産湯の井戸が残り、江戸時代までこの地に藤原寺(とうげんじ)というお寺があったそうです。

飛鳥の俯瞰図 (国営飛鳥歴史公園のHP)

作者の 藤原夫人について、一般的には藤原鎌足の娘の"五百重娘(いおえのいらつめ)"を充てる説がほとんどですが、藤原鎌足の娘で天武天皇に嫁した女性は実は二人あって、"五百重娘(いおえのいらつめ)"の姉に"氷上娘(ひかみのいらつめ)"がいて、どちらがこの藤原夫人に充たるのか明確な答えはありません。なぜどの書物も五百重娘説をとっているのか、むしろ不思議なくらいです。
二人の略歴を簡単にみてみることにしましょう。

1. 五百重娘(いおえのいらつめ)
  別名に、大原大刀自(おおはらおおとじ)という。藤原鎌足の娘。
  天武天皇即位(673年)の後、夫人となり、新田部皇子を産む。
  天武天皇の没後(686年)、異母兄藤原不比等の妻となり、不比等の四男・麻呂を産む。

2. 氷上娘(ひかみのいらつめ)
  別名に、氷上大刀自(ひかみのおおとじ)という。藤原鎌足の娘。
  五百重娘は妹で、藤原不比等は異母弟にあたる。同母弟とする説もある。
  天武天皇即位後、その夫人となり、但馬皇女(高市皇子妃)を産む。
  682年宮中にて薨去して赤穂に葬られた。

五百重娘の産んだ新田部皇子は、藤原京-奈良時代前期に朝廷で重きを成し、聖武天皇の補佐役にまで上りつめた人物です。また藤原不比等との間にもうけた麻呂は、所謂藤原四兄弟の末弟として政治に覇を唱えた人で、特に東北経営に大いに力を発揮しました。五百重娘の息子二人は、皇族と藤原氏の両方のトップであったわけで、歴史上希に見る強運の貴婦人というべきでしょうか。
五百重娘の歌に次の歌が在ります。

藤原夫人歌一首。飛鳥浄御原宮に天の下知らしめし天皇の夫人なり。字を大原大刀自といへり。即ち新田部皇子の母なり。
08-1465 霍公鳥(ほととぎす) いたくな鳴きそ 汝が声を 五月の玉に あへ貫くまでに
ホトトギスよ そんなにも鳴いてくれるな お前の声を 五月の橘の珠のかずらにまじえて貫くことが出来るようになるまでは。

それに対して、氷上娘は薄幸の人です。同時期に、天武天皇の寵愛を争った妹の五百重娘が新田部皇子を産んだその翌年の682年に、突然宮中で亡くなっています。万葉集の巻末にあたる第20巻にようやく次の歌が載っていますが、なぜ巻末にこのような古い歌が突然出てくるのか不思議に思います。この歌では、氷上娘はなぜか泣いてばかりいて、不幸の予兆がします。これは、もしかしたら、辞世の句ではないでしょうか?

藤原夫人歌一首。飛鳥浄御原宮に天の下知らしめし天皇の夫人なり。字を氷上大刀自といへり。
20-4479 朝夕に 音のみし泣けば 焼き太刀の 利心(とごころ)も 我れは思ひかねつも
朝夕に泣いてばかりいるので、焼きの入った鈍刀ほどにも、心を鋭く持っていることが出来ません。

この歌には後記があって、兵部卿の大原真人今城が伝え詠んだ歌とあります。大原真人今城は、父を穂積皇子、母を大伴坂上郎女とする臣籍降下した皇族の裔で、大伴家持を補佐して、万葉集を編纂した人物のひとりとされています。父の穂積皇子は、若い頃氷上娘の娘である"但馬皇女"と不倫関係で浮名を流した人物として有名で、但馬皇女から贈られた相聞歌が万葉集中屈指の秀歌として有名です。この歌の伝承には、それらの相関関係が係ったことが想起されます。但馬皇女の代表歌も掲載しておきましょう。

02-0114 秋の田の 穂向きの寄よれる こと寄りに 君に寄りなな 言痛かりとも
02-0115 遺れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の隈廻に 標結へ我が背
02-0116 人言を 繁み言痛み 己が世に 未だ渡らぬ 朝川渡る
08-1515 言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを

話を元に戻します。結局、藤原夫人は、同じ時期に二人居たわけで、姉妹でありながら天皇の寵を争った後、五百重娘が勝って皇子を産み、敗れた氷上娘は泣き暮れて早世してしまったというような実際の物語があったのかもしれません。
歌の調子からいうならば、氷上娘より五百重娘のほうが意志の力が強く、表掲の歌に近いように思います。その意味では、表掲の歌は五百重娘の勝利宣言として捉えることが出来ます。しかしそれ以前に、氷上娘は天武天皇の寵愛を受けて但馬皇女を産んでいるので、もしかしたらその頃の氷上娘の作歌であるかもしれません。むしろ、氷上娘という名前は、表掲の歌が詠まれたことによる天武天皇から賜った愛称ではなかったかという推論も成り立ちます。
なお、氷上娘の母を万葉歌人鏡王女(額田王の姉で藤原鎌足の妻、684年没)とする説もあって、この場合、氷上娘が葬られたという赤穂を桜井市赤尾と比定すると、今に残る鏡王女墓(桜井市忍坂)にほど近いところに葬られたことになります。なんだかありそうな話だとは思いませんか?
(記: 2011年4月29日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/4/29 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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