万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


02-0103 我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後 天武天皇 飛鳥
浄御原宮
02-0104 我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ 藤原夫人 飛鳥
小原




写真: 飛鳥板葺宮跡から多武峯方面を望む
Feb. 12, 2011
Manual focus, Lens75mm, Format67
RVP100F

天武天皇が后の藤原夫人(ふじわらのぶにん)に送った歌。"私の住む里に大雪が降ったぞ。あなたの古びた大原の里に雪が降るのは、これよりも後のことだろう。"と無邪気にからかう天武天皇の歌に藤原夫人は返して、"わが岡の水神に祈って降らせた雪の砕けた一部がそちらに降ったのでしょう。"
藤原夫人を、藤原鎌足の娘の、"氷上娘(ひかみのいらつめ)"あるいはその妹の"五百重娘(いおえのいらつめ)"とする2説がある。

天武天皇は、壬申の乱の勝利の後、飛鳥に都を戻して、かつて歴代の天皇が居を定めた岡本の地に「飛鳥浄御原宮」を定めました。現在、伝板葺宮と伝承されて公園に整備されている区域(写真の井戸跡)は、飛鳥浄御原宮の内郭の一部と考えられています。

飛鳥の俯瞰図 (国営飛鳥歴史公園のHP)

私が小学生の頃(40年前)、この板葺宮の石組みが発見されて大変話題になって、父と一緒に見に行ったことがありました。その頃の資料では、この石組遺跡は大化の改新があった皇極天皇の飛鳥板葺宮跡となっていて、飛鳥浄御原宮は、飛鳥寺北の水落遺跡あたりが有力とされていたように思います。実際今でも、飛鳥浄御原宮跡の石碑がそこに残っているはずです。ただし、近年水落遺跡の近くから小懇田宮と墨書された土師器が発見されたことから、推古天皇の創建に始まり、奈良時代まで続いた小懇田宮があったところとする説が有力で、飛鳥浄御原宮を充てる説は現代ではほぼ100%否定され.ています。
最新の発掘成果によると、飛鳥岡本のこの地(飛鳥京)に、歴代の宮地が重なって営まれたことがわかっています。

飛鳥岡本宮 舒明天皇 舒明2年(630) 舒明8年(636)
飛鳥板蓋宮 皇極天皇 皇極2年(643) 大化元年(645)
後飛鳥岡本宮 斉明天皇 斉明2年(656) 天智6年(667)
飛鳥浄御原宮 天武天皇 天武2年(673) 朱鳥8年(694)

飛鳥京には、合計42年の期間都が営まれたことになりますが、平城京の70年、藤原京の16年と較べても、比較的長い期間都があったといえます。特に、天武天皇の飛鳥浄御原宮の21年は、かなり長い期間に渡って安定した政権が営まれました。後の文武天皇、聖武天皇、桓武天皇が、天武天皇の治世を目指したのは、天皇自ら親政を行い、豪族の専横を許さず、しかもその安定が際立っていたからにほかなりません。
天武天皇が、壬申の乱の勝利後飛鳥に都を戻したのは、百済系の渡来知識人を支持基盤とする近江の天智朝に対して、大海人皇子(天武天皇)は、大和の豪族を支持基盤としていたからと一般の教科書に説明されていますが、よく考えてみると、既に孝徳朝の難波京、天智朝の近江京などの本格的な都城建設を経た後なので、それだけでこんな狭いところに都を戻したことに疑念がないとはいえません。実際この場所に立ってみると、極めて狭いという印象を受けます。加えてこの盆地は北の一方向についてのみ開かれて、そのほかの三方(西-南-東)は山で閉ざされています。
中国式都城は、簡単に言えば、"君子南面す"という陰陽思想に代表される形而学上の約束事に則って築かれていなければなりませんが、この都は最初からこの約束事が無視されています。要するに、外交上中国の唐王朝との関係をあまり意識する必要性がない政治環境にあったからこそ、飛鳥に都を戻すことができたのではないかと思われます。すくなくとも、天武王朝では、唐王朝に積極的に働きかけて倭王の称号を求めたり、あるいは朝鮮半島での利権を要求したりということはすることはありませんでした。驚くべきは、近江朝の天智8年(669年)の第7次遣唐使以降、33年間遣唐使の派遣がなかったことです。天武天皇の在世は、673年から686年ですから、天武天皇の時代は、まったく中国とは没交渉だったことがわかります。
白村江の戦いで唐新羅連合軍に惨敗したのが天智2年(663年)で、その後唐の日本侵攻に備えて、天智天皇は近江に遷都しますが、天智天皇が亡くなった後に壬申の乱がおこった672年頃には、唐と新羅の間で韓半島の覇権を争って激しい戦争が行われていました。そして、676年には新羅は唐との争いに勝利して、朝鮮半島を統一して、統一新羅が誕生しています。天武天皇が壬申の乱に勝利して、飛鳥古京に都を戻して、天皇を神と称える天皇親政が実現したのには、このような国際情勢の変化が大いに影響していたわけです。
言い換えると、律令による全国的な統治機能を持たなかったこの時代にあっては、外的な要因(唐王朝との外交)を除くと、飛鳥は日本の王都を置くのにちょうど手ごろな大きさであったともいえます。
少し余談になりますが、奈良時代の中頃、聖武天皇は、藤原氏の専横を避けるために、山城国加茂に恭仁京、あるいは近江山中に信楽宮を建てて都を移していますが、現地に行ってみて、この大きさが飛鳥と同じくらいということに気がつきました。恭仁京や信楽宮については、何故あんなところに都を建てたのかよくわからないと世情酷評されることが多く、特にその狭さがよく指摘されますが、見方を変えると必要最低限の大きさは維持されているのであり、飛鳥やそれ以前に都が築かれることの多かった磐余や敷嶋、初瀬あたりの景色が良く似ています。聖武天皇は、天武親政の再興を目指して、飛鳥に似た地勢の場所に都を築いたのではないでしょうか。

さて、歌に話を戻すと、天武天皇の歌に詠われる"大原の里"は、宮から北東に約500メートルほどのところ、飛鳥寺から東に飛鳥坐神社を抜けた小高いところにあります。当時藤原氏宗家の邸宅があった場所とされており、藤原鎌足生誕の地と伝わる小原神社(おおはらじんじゃ)に、表題の万葉歌碑が建立されています。
天武天皇は、藤原夫人をからかって、"古臭いお前の実家の大原に雪が降るのは後だ"と言ったのに対して、夫人は"実家のある岡に祭る水神に祈って降らせた雪の砕けた一部がそちらに降ったのでしょう"と当意即妙に詠いました。天武天皇は、新しい宮殿が自慢だったに違いなく、大原の藤原邸を古臭いといっているところがなんともユニークです。
藤原宗家の頭領は、このころまだ世に出ていなかった藤原不比等であり、天武天皇から古臭いといわれた家の主は天皇の没後次第に頭角をあらわして、日本に画期的な律令体制を確立するとともに、本格的中国式都城である藤原京や平城京への遷都を実現し、遣唐使の派遣なども行って中国とも積極的な外交を展開することになるわけですから、歴史の皮肉というべきものかもしれません。加えて、浄御原京の宮殿と藤原夫人の居る大原の地ではたかだか500メートルほどしか離れていないというところが、この歌に例えようもない可笑しみを与えてくれています。
都が手に載るほどに小さかった時代の、そしてまだ天皇という存在が極めて人間臭かった時代に生まれた、新珠のような歌です。
(記: 2011年4月29日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/4/29 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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