万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


02-0093 玉櫛笥 覆ふを安み 明けていなば 君が名はあれど 吾が名し惜しも 鏡王女 鏡王女押坂墓
02-0094 玉櫛笥 みむろの山の さな葛さ 寝ずはつひに 有りかつましじ 中臣鎌足 -




写真: 鏡王女押坂墓の全景
Apr. 18 2010
Manual focus, Lens105mm, format67
RVP100F

中臣鎌足が鏡王女を夜這ったときの歌。"玉櫛を入れる貴重な箱をうっかり開けてしまったけれども、警戒もせずに容易く出て行ってしまったならば、あなたと私のことが知れてしまうかもしれません。そうなればあなたはよいかもしれませんが、私の浮名が立つのは惜しいことです"

鏡王女は、謎の人物です。万葉集に取り上げられている鏡王女の歌は四首に過ぎませんが、有名な額田王と姉妹ではないかとする説が古来あって、様々な角度から研究がされています。諸説の元となる重要な事象を箇条書きにすると

1. "鏡王女"という呼び名から、皇族鏡王の娘であると推定するのが定説で、同じく鏡王の女であるとされる額田王と姉妹とする説がある。万葉集巻4の488-489番の相聞歌で、額田王と鏡王女が掛け合いの歌を披露している。
額田王が天智天皇を思って作った歌一首
04-0488 君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く 額田王
鏡王女が作った歌一首
04-0489 風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ 鏡王女
2. 鏡王女は天智天皇の寵愛を受けていた。
天皇の鏡王女に賜へる歌一首
02-0091 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを 中大兄皇子
鏡王女の和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首
02-0092 秋山の 樹の下かくり 逝く水の 吾れこそ 益さめ 御思ひよりは 鏡王女
3. 後に中臣鎌足の愛を受けて、万葉集に相聞歌を残した。
内大臣藤原卿の鏡王女を娉(よば)ひし時に、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
02-0093 玉櫛笥 覆ふを安み 明けていなば 君が名はあれど 吾が名し惜しも 鏡王女
内大臣藤原卿の鏡王女に報える歌一首
02-0094 玉櫛笥 みむろの山の さな葛さ 寝ずはつひに 有りかつましじ 中臣鎌足
4. 万葉集2巻には、その歌に続けて、中臣鎌足が采女の安見児を天智天皇から賜ったときに詠った歌が載る。
02-0095 我れはもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見児得たり 中臣鎌足
  歌の流れから、この安見児を鏡王女と見る説が古来ある。
  しかし、その場合通説では鏡王女は采女ということになり、鏡王は皇族ではないということになる。
5. "興福寺縁起"に、中臣鎌足が死去したときにその菩提を弔うために、興福寺前身である山階寺を鎌足の妻の鏡王女が創建したのがその始まりと伝える。
6. 忍阪の舒明天皇稜の墓域に、鏡王女の墓が残る(上記写真)。現在、中臣鎌足を祭神とする談山神社が管理している。

歴史にとどめる鏡王女の足跡は、だいたいこのようなところです。これらをどのように組み立てて説明するかにすべてが掛かっているわけですが、これが正に百花斉放というべき状態。
よく行われる説は、鏡王女が、鏡王という地方豪族の娘であって、采女として中大兄皇子に仕えてその愛を受けたものの、中臣鎌足の求めもあって鎌足に下賜されたというものです。しかし、この場合、鏡王女の墓が、皇女並みの扱いをうけて、舒明天皇稜の墓域に築かれている理由の説明がつきません。冷静に考えると、やはり鏡王女は、皇族の一員であったということは動かしがたいようです。私は、まず鏡王が皇族の一員で、故に鏡王女と額田王は双方に皇族であったというところから、諸事象を組み立てなおしたほうが全体的な整合性がとれるし、しかもその時代の時代背景とも矛盾がないように思うのです。
その意味では、網干善教さんあたりが天皇稜の墓域や当時の婚姻制度などを研究されて主張しておられる忍坂王家の存在などは大変有意義な意見で、その説を発展させて鏡王を正史に現れる"猪名公高見"であるとする説は大変説得力があります。私はこの説が現時点で一番魅力のある説ではないかと考えています。
"猪名公高見"は、別の発掘資料に現れる"威奈鏡公"と同一とされる人物ですが、宣化天皇の4世にあたり、孝徳朝にすでに文献に現れて、特に近江朝では"大紫"という高官を務め、壬申の乱の前年には亡くなったとされています。詳しい論考を行う能力は私にありませんので、ここでは詳しい説明することを省きますが、この説ですと、鏡王女や額田王は、蘇我氏の血を受けていない純粋な皇孫系の血を持つという忍坂王家の出身ということになり、万葉集の二番歌を詠った"舒明天皇"の血脈の一人ということになります。
ただ、万葉集に書かれている物語は更に複雑で、私のみの意見かもしれませんが、中臣鎌足に下賜されたという"安見児 (95番歌")は、やはり"鏡王女"のことではないかと考えています。その理由は単純で、"安見児"という名前は、鏡王女が詠った94番歌の「玉櫛笥 覆ふを安み 明けていなば・・・」からきていて、いわば「うっかり覆いを明けて見てしまった児」というあだ名のようなものです。
この時代王族の娘は皇族以外とは結婚できない厳粛なルールがありました。後に律令が確立したときには、5世までの皇族の女は、皇族以外とは婚姻が出来ないルールになっており、よほどのことがなければ、これをはずせない決まりになっていました。この前の時代であっても、中臣鎌足が鏡王女を夜這わったのは、明らかに禁断の恋であったはずです。ですから、その事実が知れてしまったために、中大兄皇子は鏡王女を采女安見児という多少侮ったあだ名をつけて、臣下に下賜したのではないかと推測できます。もしかしたら、中大兄皇子が鎌足を唆せて、鏡王女に夜這いさせた可能性はないでしょうか。鎌足という人物は、それくらいにこの時代に重きを成していましたので、いわばご褒美のようなものでなかったでしょうか。
忍坂王家は、舒明天皇を出して、聖徳太子の上宮王家と並ぶ名族でしたが、蘇我氏の天下が100年ほど続く中で、この頃はかなり勢力が弱まっていたことが考えられます。父の"鏡王"であるべき名前が、正史では"鏡公"に変じているのはその現れかもしれません。鏡王女の「君が名はあれど 吾が名し惜しも」という言葉は、落魄の名族の悲痛な叫びでもあったのです。
なお、忍坂王家の墓域の研究から福島隆三氏は、忍阪に残る一地名の"赤穂"に葬られた天武天皇の夫人であった"藤原夫人(別名"氷上娘" 中臣鎌足の娘)"は、鏡王女の娘と推定されておられて、天武天皇の娘で、情熱的な恋歌で有名な但馬皇女を、この藤原夫人の娘とされておられます。但馬皇女も、忍阪に近い吉隠(よなばり)に葬られました。また、天武天皇と額田王の娘で、大友皇子の正妻であった十市皇女も、赤穂の地に葬られています。
忍坂王家は、女流歌人を多く輩出した家でもあったのです。
(記: 2010年5月5日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/5/5 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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