万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


01-0078 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ 元明天皇 古宮土壇




写真: 古宮土壇の雪景
Feb. 12, 2011
Manual focus, Lens75mm, Format67
RVP100F

題詞に"和銅3年(710年)庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷りましし時に、御輿を長屋の原に停めて遙かに古郷(ふるさと)を望みて作る歌"とある。
"明日香の里を離れて、奈良の都に去っていきますが、懐かしいあなたが住むあたりはもはや見えないことでありましょう。"

題詞にあるように、710年藤原京から平城京へ遷都するときに、その途上長屋の原(奈良県天理市永原・長柄あたりとされる)で輿を止めて、遙か飛鳥を望んで詠われた歌とされています。"一書に云わく、太上天皇の御製といへり。"という補注があるので、元正天皇は当時太上天皇ではなかったものの、後に元正天皇に皇位を譲って太上天皇になっているので、作者を元明天皇に充てて考える説が有力です。
元明天皇は、天智天皇の皇女で、草壁皇子の妻となって文武天皇を産んだ人で、この歌における"君"とは草壁皇子のことを指していると考えられます。本来遷都における懐郷の歌であれば、旧都藤原京を偲ぶ歌でなければならないのに、廃都となって既に16年も経ている明日香を詠う理由は、ひとえに草壁皇子に対する追慕の情からに違いありません。草壁皇子は、別名に日並皇子尊(ひなみしのみこと)といい、天武天皇の正嫡として並ぶものがなく、天皇立位を目前にして689年に亡くなった人物で、当時都はまだ飛鳥にありました。

閑話休題。写真の古宮土壇は明日香村豊浦(よゆら)にある古い土盛です。かねてより、推古天皇の小懇田宮(おはりだのみや)の址とする伝承がありますが、近年の発掘成果により、小墾田宮は明日香川の対岸(東岸)にあったとする説が有力になりつつあります。土檀近くの限られた区域を発掘した限りでは、飛鳥時代に遡る明確な痕跡が発見されず、平安時代の寺院建築の址がいくつか確認されただけのようです。ただし、古宮土壇に近い向原寺(推古天皇の豊浦宮跡であることが近年確認された)の住職にお伺いしたところでは、「明日香川東岸の小墾田宮は、推古天皇後、新たに作られた小墾田宮(記紀に奈良時代まで存続したとされる)の址で、古宮土壇はそれ以前の推古天皇時代の宮址だ」と確信を持っておっしゃられました。

飛鳥の地図

平城京、藤原京、恭仁京の大極殿址は、かつては田畑の中にポツンと残る土壇(土盛)のみというような有様で、現在整理されて公園になっているものの、その景色は今の古宮土壇とよく似ていたようです。特に、平城京の大極殿址は"大黒の芝"と呼ばれて、大きな土盛に松が一本生えていただけで、古い白黒写真を観た限りでは、確かに古宮土壇と雰囲気がよく似ています。小墾田宮跡という伝承も、こういうところから来ているのでしょうか。
私見ではありますが、古宮土壇が推古天皇時代の小墾田宮である可能性は、残念ながら少ないのではないかと私は考えています。何故なら、土盛をして礎石を置き、その上に柱を立てて、屋根には瓦を葺くというような建築物は、大陸系の土木技術によるものであって、推古天皇時代になって、飛鳥寺などの寺院建築に初めて取り入れらるようになりました。逆に言うと、まだ宮殿建築には採用されていなかったと考えられます。
最新の発掘調査によると、宮殿の大殿に、大陸式の盛り土、礎石、瓦が用いられるようになるのは藤原京が最初であって、それ以前のものはすべて掘立柱の高床構造でした。とすると、宮跡に土壇が発生する可能性は藤原京時代以降の宮殿ということになるので、それ以前の推古天皇の御世に土壇構造の殿舎が存在したということは、ほとんど考えられないと思うのです。大陸式の建物は、この時代にあっては仏殿の可能性がありますが、迎賓館のような特殊な建物も考えてみる必要はないでしょうか。
古宮土壇は、地政学的には中ツ道の南の基点に位置しており、飛鳥京及び藤原京、ないしは大和盆地全体の都市計画の要の場所に存在していることになります。ここに何かがあったのは間違いなさそうです。蘇我蝦夷の邸宅址ではないかとする意見もあります。今後の研究成果が大いに期待されます。
(記: 2010年5月5日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/5/5 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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