01-0040 |
嗚呼見(あみ)の浦に 舟乗りすらむ 娘子らが 玉藻の裾に 潮満つらむか |
柿本人麻呂 |
小浜 |
写真: 鳥羽市小浜の浜にて
May 5 2011
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100 |
題詞に、「伊勢国に幸しし時、京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあり、この40番歌、そして41番歌、42番歌が続く。持統天皇の伊勢国行幸の折、都に留まっていた柿本人麻呂が詠んだ歌とされる。
「嗚呼見(あみ)の浦に船に乗ろうとしてする乙女らの衣の裾には、潮が満ちいてることだろう」
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持統天皇6年(692年)3月に、持統天皇による伊勢行幸が行われ、この歌は、都に残っていた柿本人麻呂が詠んだ歌とされています。題詞に、「伊勢国に幸しし時、京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあり、次の三首が続きます。
01-0040 |
嗚呼見(あみ)の浦に 舟乗りすらむ 娘子らが 玉藻の裾に 潮満つらむか |
小浜 |
01-0041 |
釧(くしろ)つく 手節(たふし)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ |
答志島 |
01-0042 |
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を |
伊良湖 |
題詞にあるように、柿本人麻呂は実際にこれらの景色を見て詠ったわけではありません。おそらくは彼の地の地勢や行幸の日程を伝え聞いて、その内容に基づいて作歌したと思われます。ときどき、この歌は行幸に同行した人麻呂の愛人(采女)に向けて詠ったとする説を見かけますが、それは明らかな間違いで、この歌は持統天皇の求めによって作られた歌に違い在りません。何故ならば、この歌が巻1という万葉集中で最も重要とされる巻に掲載されているからで、万葉集が持統皇統の正当性を和歌で言祝ぐために編まれたのが巻1とするならば、この歌がそのような個人的な動機で作られたとは考えにくいからです。この歌は、あくまで持統天皇の求めに応じて、公けのものとして作られたものに違いなく、伊勢行幸の折に行われた公式行事あるいは宴会等でこの歌が唱和されたと思われます。
かつて672年の壬申の乱の折、大海人皇子は吉野で挙兵し、名張を越えて一旦伊勢に出た後、美濃に向いましたが、その妻であった鵜野讚良皇女(=持統天皇)は、大海人と伊勢で別れてこの地に留まったとされています。おそらくは、伊勢・志摩の豪族の中に、大海人軍に味方した者たちが大勢いて、彼女を積極的にかくまったに違い在りません。
したがって、伊勢行幸は、既に老齢であった持統天皇が、かつて隠れた伊勢の地を偲ぶとともに、壬申の乱に加勢した伊賀・伊勢・志摩、それから東国の諸族に対して、その功をねぎらうという性格のものであったようです。
そもそも伊勢神宮の斎宮制度(選ばれた皇女が、伊勢神宮に仕えて天照大神を祀る制度)は、壬申の乱の後、天武天皇の御世に始まりましたが、この鵜野讚良皇女の伊勢隠棲が歴史的な史実として存在して、乱後に天皇の神格化が推し進められる中で朝廷と伊勢神宮の絆が深まったときに、皇女の伊勢隠棲の史実が形を変えて斎宮制度に結実したと推測することも出来ます。
日本書紀に「過ぎます志摩の百姓の男女、年(年齢)八十以上に、人ごとに(それぞれもれなく)稲五十束を賜う。近江、美濃、尾張、参河(三河)、遠江(とうとうみ・静岡)の国の、共をした騎士の戸、諸国の荷丁の本年の調をも免除した」とあり、伊勢行幸の折に、持統天皇が行く先々で大盤振る舞いをしたことが分かります。
40番歌の嗚呼見(あみ)の浦の場所には、2つの説があります。鳥羽市小浜とする説、それから日本書紀に伊勢行幸の最後に、阿児(あご)行宮に泊ったことがみえることから、"あご"が"あみ"に訛ったとする説があります。犬養孝氏の万葉の旅(中)によると、昭和30年代には、小浜の猟師が小浜漁港の南の狭い範囲の浜を"あみの浜"と実際に呼んでいたようです。実際にその地に立ってみると、目前に答志島を見ることが出来て、41番歌との関連性において、この"小浜"を"あみの浜"とする説が有力です。
近年は写真のようにホテルが立ち並んで、ご覧のような景色です。ご多分に漏れず防波堤が築かれており、かつて浜があったようには見えませんが、犬養氏の本に載っている昭和38年の写真には、確かに小さな小石交じりの浜がありました。
なお、右手に見えるのが答志島です。小浜は両脇に突き出た半島を抱え、前方に答志島があるため、波が静かなところで、小型の木造舟が停泊するには好都合な浜辺でした。答志島、神島などを船で伝って、東海地方(知多半島)に渡ることができました。
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(記: 2012年6月24日) |
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