万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


01-0020 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 額田王 蒲生野
01-0021 むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも 大海人皇子 蒲生野




写真: 万葉歌碑の建つ船岡山(滋賀県東近江市)から蒲生野を望む
Apr. 9 2011
Manual focus, Lens150mm, Format67
RVP100F

題詞に"天皇、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌"とある。
"紫草の生える御料園を行ったり来たりしました。野守は見たりはしなかったでしょうか。あなたが袖をお振りになるのを。"

古来有名な歌で、額田王と当時皇太弟であった大海人皇子(後の天武天皇)の間に交わされた相聞歌とされています。この歌に、大海人皇子は、「紫草のように美しいあなたを、人妻になってしまったからといって憎んでいるのであれば、このように恋などするでしょうか。」と返しています。

01-0021 むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも 大海人皇子 蒲生野

額田王は、大海人皇子の若かりし頃の最初の妻でありましたが、後に皇子の兄である天智天皇の寵愛を受けて、この歌が詠われた頃には、天智天皇の後宮に居たようです。したがって、いくら元妻であっても、現代の感覚であれば、堂々と愛の歌を交換することは憚られたはずで、それ故に激しい妻争いの歌として一般に知られているのです。この後天智天皇は崩御し、正嫡である大友皇子と皇太弟の大海人皇子が帝位を争って壬申の乱が起き、結局大海人皇子が勝利して天武天皇になります。これらの物語ゆえに、額田王には、傾城の美女というイメージが定着することになりました。
しかし、近年、この歌は薬狩の際に行われた宴会の戯れ歌ではないかという説が有力になっています。確かに、万葉集には宴会歌という形式が存在したことは間違いなく、概ね歌垣の相聞歌の形式を借りながら、複数の宴席者と歌を応答することが頻繁に行われていたと考えられます。即ち、宴会の戯れとして、かつての夫婦は、形式どおりに歌を詠っただけなのかもしれないのです。

少し論点を整理してみることにしましょう。
この頃、額田王は40歳近くになっていたはずで、しかも大海人皇子との間に儲けた十市皇女は、天智天皇の嗣子である大友皇子の正室になっていました。額田王が天智天皇の後宮に居る理由は、若かりし頃の顛末はさておき、愛娘十市皇女の後見としての役割があったと思われます。
大友皇子は、文武両道に秀でて特に漢詩に優れ、しかも容貌は並々ならぬものがあったと懐風藻に書かれていますが、庶子(母親が伊賀采女宅子)であるため、通常ならば天皇に就くには血統上の問題がありました。十市皇女が大友皇女に嫁した理由は、ひとえにこの血統上の問題点を解決するためであったろうと推測されます。

天皇家は純血化を目指して皇族同士の結婚を絶えず繰り返してきましたが、当時血統では、舒明天皇と斉明天皇の間に兄弟として生まれた中大兄皇子と大海人皇子が最も際立っていました。ところが天智天皇の后は、皇后の倭姫王だけが皇族でしかも子供がなく、額田王を除くその他はすべて皇族外の出身でした。結局天智天皇の子供には、庶子しかいなかったことになります。
それに対して、皇太弟であった大海人皇子の妻には、壬申の乱以前には、初めての妻である額田王、それから天智天皇の娘の大田皇女、?野讃良皇女(後の持統天皇)を娶り、十市皇女、大津皇子、草壁皇子を産んでおり、壬申の乱後には、やはり天智天皇の娘である大江皇女、新田部皇女を妻として、弓削皇子、舎人皇子を産んでいます。血脈的は、圧倒的に大海人皇子のほうが優勢だったのです。
しかし、天智天皇の近江朝は、それまでの大和の在地勢力を抑えて、百済からの亡命貴族が新たに実権を握っており、彼らは天智天皇直系の大友皇子をどうしても担がねばならないと考えていたはずです。もちろん、大海人皇子の血を引く十市皇女を大友皇子の皇后に迎えることには、大和勢力を手なずける意味もあったと思います。
このように考えると、額田王が、天智天皇の後宮の中で、他の后達とは異なって独立した地位が約束されていたことの理由がなんとなくわかるような気がします。彼女は、皇族出身の后のひとりというだけでなく、その娘が皇太子の妻であり、しかも将来天皇であるべき血統上の弱点をその妻の存在が補っているということにおいて、まるで外戚であるかのような際立った存在であったのです。そのような状況を頭に置いたときに初めて、この歌の意味がわかってくるように思います。

すなわち、この相聞歌は宴会における応答歌であり、いわば宴席の約束事において詠われた戯れ歌のようなものであるという説は、正しいと思います。そして、いわば両者は大人の遊びとして、余裕を持ってこの歌を詠ったのであり、周りの者もそのような雰囲気の中で、この歌を聞いたことでしょう。むろん、天智天皇もその場でこの歌を聴いたであろうと思います。万葉集の後注には、「紀に曰く 天智天皇7年(668年)丁卯夏5月5日、蒲生野に狩したまふ。時に大皇弟、諸王、内臣と群臣、悉く皆従った」とあります。宴席には、天智天皇や内臣の中臣鎌足もいたことは間違いありません。額田王の歌は、その内容から考えて、いわば題詠のようなものであり、形式どおり相聞歌の形をとってはいるものの、"君が袖振る"の君とは、大海人皇子だけではなく宴席につならる者すべてに対して投げかけられたと考えたほうがよいと思います。とすると、額田王の歌に対して返された歌というのは、大海人皇子の歌だけでなく、多数存在したということになります。万葉集編纂の過程で、理由はわかりませんが、そのほかの歌は失われてしまったのです。あるいは口承の過程で、その他の歌が失われてしまって、万葉集編纂の時には、この二首しか残されていなかったのかもしれません。
そのように考えると、大海人皇子の詠う「われ恋めやも」という詞は、単純に額田王に対する恋愛感情を詠ったものではなく、題詠の「きみが袖振る」に対する対句として、歌垣の相聞歌の語法を借りて、詠われた詞であると考えるべきでしょう。

ところで、大海人皇子の返歌は、"紫草のように美しいあなたが憎かったら、あなたは人妻だのに、どうして恋い慕うことがあろうか(中西進 万葉集全訳注)"のような少しあいまいな訳が一般的に振られていますが、すこし細かく意味を読み解く必要があると思います。例えば、"あなたは人妻だのに、どうして恋い慕うことがあろうか"という訳は、少しおかしいということに気がつかれないでしょうか。
一般的には、「人妻ゆえに」は「われ恋めやも」に掛けて解釈されていますが、私は、「人妻ゆえに」は「憎くあらば」に掛けて読み解くべきと考えています。一般的な読みは、575-77と句切れを置く解釈ですが、私の読みは、57-57-7と2箇所に句切れを置く古い万葉歌の詠み方によります。最後の"われ恋めやも"の詞は、額田王の"君がそで振る"に対する対句のようなもので、ほかの詞と分けて存在していると考えます。それから、「憎くあらば」は、上句の「"妹"と下句の"人妻"の両方に掛けられている詞と解釈できます。
すなわち、「紫の衣の美しいあなたが、人妻になってしまったからといって憎いというのであれば、袖など振るものでしょうか。」と意訳することが出来ます。"われ恋めやも"という詞は、"君がそで振る"の返しにしか過ぎないのであれば、恋の告白などという大げさなものではないと考えるべきでしょう。
大海人皇子の若かりし頃の最初の妻であった額田王は、その後天智天皇の寵愛を受けたということは事実であったろうし、40歳前後にもなったこの頃には、十市皇女の後見として近江朝の後宮にいたはずで、彼女は独立した立場を保ちながら、皆に一目置かれる存在として煌いていたはずです。大海人皇子は、彼女の存在を独立した人格として敬って、この歌を返したのに違い在りません。
なお、"紫の にほへる妹を"の上の5-7について、"紫草のように美しいあなた"という一般的な解釈は正しくないと思います。紫草の花は、たいへん地味な小さな白い花を咲かせるだけで、それほど美しいものではありません。紫草は、身分の高い者だけしか身に着けることができない紫色の高級染料として、禁料の菜園で栽培されるのであって、この場合は、おそらく額田王が紫色の着物を着ていて、それが美しいと言っているのであって、紫色の着物は、額田王が大海人皇子のものを離れても、近江朝の後宮で天皇夫人の一人として、皇太子夫人の母として、教養ある宮廷歌人として、あるいは宮廷祭祀の巫女王として特別な存在であることを示しているのです。

これらを踏まえて、最後に、全訳を再確認することにしましょう。
ただし、一般解釈と若干異なって、あくまで自説を尊重した意訳なので、学校の答案にはこれを書かないように!

01-0020 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 額田王
紫草の生える御料園を行ったり来たり、皆でしましたね。野守は見たりはしなかったでしょうか。あなたが袖をお振りになるのを
 
01-0021 むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも 大海人皇子
紫草で染めた紫衣を美しく着飾って時めくあなたを、私のもとを去って人妻になってしまったから憎いというのであれば、あなたに袖を振るなんてことはありませんよ。

追記)
ホームページを始めて三年。最初の頃、雑記帳のコーナーに、「三山歌考」と題して、この歌に関する若干の解釈を述べていますが、今回の注釈とは随分異なっています。考えみますと、その間何がしかの勉強もしているわけで、素人であれば多少の変節もしようがないということで、ご容赦いただければと思います。あえて、文章の修正などは、行わないつもりでおります。


三山歌考 2008年8月24日

(記: 2011年7月23日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2011/7/23 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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