万葉の故地を写真で巡る 万葉の風景


01-0012 我が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 玉ぞ拾はぬ 中皇命 野島




写真: 野島の浜より夕陽を望む
Jul. 18, 2010
Manual_Focus Lens75mm, Format67
RVP100F

題詞に、"中皇命、紀の温泉に往(いでま)しし時の御歌"とある。
"私が見たいと思っていた野島は見せていただきました。しかし、底の深い阿胡根(あごね)の浦の珠はまだ拾っていません。"

作者の中皇命は間人皇后のことで、舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた三人の子供のうちの第二子にあたります。中大兄皇子(天智天皇)を兄に、大海人皇子(天武天皇)を弟に持つ文字通りのサラブレッドというべき人でした。加えて、大化の改新の直後、天皇の地位に就いた孝徳天皇の正室でもありました。その人がこの歌では、中皇帝(なかのすめらみこと)という尊称を奉られているのは不思議な気がします。確かに間人皇后は、極めて高貴な女性でしたが、この頃、兄の中大兄皇子はまだ天皇ではなく、同じ頃の万葉集では"中大兄皇子"の名前で記載されているのに対して、間人皇后の中皇命は、まるで天皇のような名前です。
実は、孝徳天皇の死後、間人皇后は天皇の地位にあったのではないかという説があります。飛鳥-奈良時代には、男帝がなくなった場合に、皇后が天皇の地位につくことが度々ありました。敏達天皇の皇后であった推古天皇、舒明天皇の皇后であった皇極天皇、天武天皇の皇后であった持統天皇、文武天皇の皇后であった元明天皇などがいて、まさに女帝の時代と言われるほどです。それから、天智天皇の皇后であった倭姫王も、記紀からは消されていますが、本当は天智天皇が亡くなったときに天皇になっていたという有力説があります。そもそも、天皇が亡くなったときに大殯(おおあらき)を主催するのは、巫女的性格を帯びた皇后であったので、皇后の血統が高貴な場合にはそのまま天皇(大王)の位に就くことがありました。そのことからすると、孝徳天皇の正太后であった間人皇后は、血統的に全く問題がなく、天皇になっていてもおかしくない人でした。
記紀では、孝徳天皇の死後、前の天皇であった皇極天皇が再び帝位について、斉明天皇になったことになっていますが、この時点では間人皇后が天皇だった可能性は十分あると思います。それでないと、中皇命という名前の説明がつきません。
結局、皇極上皇が天皇に返り咲くのは、孝徳天皇の系譜を次ぐべき有間皇子が皇極上皇への謀反を計画していたことが発覚して殺された有間皇子事件の後のことではないかと私は考えています。その意味では、間人皇后の立場は、皇極上皇の娘で、中大兄皇子の妹でありながら、むしろ孝徳天皇の系譜を継ぐべき有間皇子を唯一かばう立場にあったのかもしれません。
この歌には、"中皇命、紀の温泉に往(いでま)しし時の御歌"という題詞があり、皇極上皇の紀州行幸の折、間人皇女が同行したときの歌というのが通説ですが、私はもう少し意味を含んで、有間皇子事件との関連でこの歌を読み解くべきと考えています。
"中皇命、紀の温泉に往(いでま)しし時の御歌"は、次の三首があります。巻1の冒頭10番−12番に並べられているので、当時朝廷において、最重要な歌のひとつとして認識されていたようです。

01-0010 君が代も 我が代も 知るや 磐代(いはしろ)の 岡の草根を いざ結びてな
01-0011 我が背子は 仮廬(かりほ)作らす 草(かや)なくば 小松が下(した)の 草(かや)を刈らさね
01-0012 我が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 玉ぞ拾はぬ

それに対して、有間皇子が謀反の罪で捉えられ、紀州に送られる時に詠んだ歌に、次の二首があります。

01-0141 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む
01-0142 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

みなさんお気づきでしょうか。中皇命(間人皇女)の10番歌と有間皇子の141番歌は明らかに対になっています。これはどうしたことでしょうか。
さらに、間人皇后の11番歌は、罪人として送られる有間皇子を案じて詠った歌と読み解くことが出来ないでしょうか。とすると、有間皇子の有名な142番歌"家にあれば・・・"は、この11番歌に返す歌であったことになります。
11番歌の"我が背子"を紀州行幸の"皇極上皇"とする説がありますが、行幸で仮宮に居ますことはあったとして、天皇や上皇が草の庵に住まうということはありえないはずです。罪人として送られる有間皇子を慮って詠った歌のように思えます。
岩波書店の「日本古典文学大系/万葉集」によると、間人皇后が護送される有間皇子に付き添って行く途中の歌という説(田中卓氏)があるそうですが、私もそのように解釈するのが正しいと思います。そのような解釈から、これらの歌を並び替えると次のようになります。間人皇后の歌が俄かに生気を帯びて、臨場感が生まれてきます。

01-0010 君が代も 我が代も 知るや 磐代(いはしろ)の 岡の草根を いざ結びてな 間人皇后
01-0141 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む 有間皇子
01-0011 我が背子は 仮廬(かりほ)作らす 草(かや)なくば 小松が下(した)の 草(かや)を刈らさね 間人皇后
01-0142 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 有間皇子
01-0012 我が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 玉ぞ拾はぬ 間人皇后

そのように考えると、最後の12番歌「我が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 玉ぞ拾はぬ」に詠われている"拾うことができなかった阿胡根の浦の珠"とは、有間皇子の命のことではなかったでしょうか。
結局記紀からは、有間皇子は、中大兄皇子の訊問を受けて、「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず」と答えて、その2日後、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられていることがわかるのですが、これらの歌の解釈から史実を肉付けすると、間人皇后は有間皇子と同行して野島(和歌山県御坊市野島)を越えて、磐代(和歌山県日高郡みなべ町)辺りまでやってきたものの、中大兄皇子の訊問を受けて、その後二人は引き裂かれて、有間皇子だけが京に返されて、その途中藤白坂の地で絞首刑にされてしまったということになります。間人皇后が有間皇子に付き添ったのは明らかに有間皇子の助命のためであったのに違いありません。


結局二人を一旦引き裂いた上で、藤白坂という遠い場所で有間皇子を絞首刑にしたのは、中大兄皇子が実妹である間人皇后を慮っての苦肉の策であったろうし、反面、もしこのとき間人皇后が帝位にあったとするならば、中大兄皇子は皇位簒奪のために本当の皇太子である有間皇子を陥れた極めて冷酷な人物であったということになります。正規の歴史書の行間からは見えてこない歴史の闇というものかもしれません。
(記: 2010年11月10日)

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万葉集の風景 "View of Manyou" HP開設: 2008/5/1 頁アップ: 2010/11/10 Copyright(C) 2008 Kosharaku All Rights Reserved

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